光差す場所 「先生、さよならー!」 「ああ、気をつけて帰れ」 「先生、またねー!」 「明日の朝練習、遅れないようにするんだぞ」 生徒からのさよならの挨拶にいちいち答えながら、九郎は生徒がいなくなった頃を見計らって、剣道場のドアを閉めて一人黙々と竹刀を振り始めた。 こうして夕方になると竹刀を振るうのが日課になったのは、一年くらい前からのこと。九郎は私立高校の外部講師として、剣道部の顧問をしていた。そしてそのほかにも、時間が空いている夜などには、市営の体育館でも剣道を教えている。こちらの世界へ来たときに、龍神から九郎に与えられたものは多くはなかったが、それでも九郎はこの生活に不満は無い。むしろ、生き甲斐だった剣の道をこうしてまだ歩いていられるのは、歓迎すべきことである。真剣から木刀、また竹刀となった剣だが、怪我をさせるために学ぶのでなく、流派の道を極めるために教えるというのには、九郎もやりがいがあった。そして、自分も未だに現役である。やはり戦うために剣を振るのとは違った剣道の道は、九郎に初心を思い起こさせるので、良い鍛錬だった。 無心になって剣を振っている時が一番冷静で居られるときだ。己を見つめ、九郎の中にある日頃の積もった疲れが少しずつ氷解していく気がして、九郎は部活の後は欠かさずにこれを続けている。 そのとき、気配を忍ばせてやってくる者に気づいて、九郎は素振りを止め、戸口に声をかけた。 「どうした? 忘れ物でもしたのか?」 相手が見える前に尋ねると、くすくすっという笑い声が聞こえて、九郎は眉をひそめる。 「先生、まだ帰らないんですか?」 姿を現したのは、以前ここの生徒だった九郎のもっとも良く知る人物。 「望美……」 稽古をしていたときには絶対に見せないような笑顔を浮かべて、九郎は突然の来訪者を喜び迎えた。 「どうした? 今日は学校がある日だろう?」 「そうですけど、この時間授業終ってるし、久々に九郎さんが教えてるところ見たかったのになぁ〜。間に合いませんでしたね」 残念、と望美が口を尖らせたのに、九郎は朗らかに笑うと、望美に竹刀を見せた。 「久しぶりに、相手になってくれないか?」 「相手にって……、私剣を手放してから相当ブランクありますよ? 相手にならないと思いますけど」 「いいんだ。お前と打ち合いたい」 はぁっと溜息をついた望美も、結局は竹刀を受け取り九郎の前に立って構えた。異世界に居たときに握っていた握り具合とは似ても似つかないものだが、望美も久々に九郎と打ち合いたくなった。こちらの世界に戻ってきてからは、全然剣など持つことがなく、望美にとっても懐かしい思いでいっぱいだ。 「お手柔らかにお願いします」 「手加減が出来るようならばな」 その言葉が合図となり、道場内に激しく竹刀を打ち合う音が響き始める。剣道の作法などまるで無視したその二人の動きは、戦場そのものと変わりない。何度も打ちつけあう竹刀の音が鳴るたびに、しびれるような衝撃が二人を襲う。両者とも、手加減などしない。力あるままに、互いの剣を振るう。 だんっ! と強く踏み込んだ九郎が望美の竹刀を弾き飛ばさなければ、もう少しこの試合が続いていたかもしれない。 「……手加減してって言ったじゃないですか」 「出来るようならばな、と言っただろう」 痺れる腕を押さえながら望美の唇が少々曲がる。だからと言って、九郎にも言い分はある。 互いに本気。ブランクだからと言って望美の腕を侮ることは出来ない。戦場で見せたあの舞うような剣捌きは未だ健在だった。 「それにしても、恋人と居るのに竹刀で打ち合うなんて、本当に九郎さん色気がないですよね」 弾き飛ばされた竹刀を拾い上げてわざと望美が溜息をついて言うと、九郎が途端にうっとしたように後退する。 「仕方ないだろう? お前だって乗り気だったじゃないか」 「そうですけど。なんか、これってすごく変な感じ」 「あのな……」 世間一般の恋人同士が何をしているかなんてさっぱり解らない九郎には、返答の仕様もない。だが、これが九郎なのだから、望美には悪いが諦めてもらうしかない。 「嫌だったならそういえば良かっただろう」 「嫌じゃないですよ、私だって久々に振りたかったし。ただ変な感じがしただけです」 そもそも、九郎に優しい抱擁や、くちづけなんてもの、最初から求めていない。求めたところで期待しすぎた自分が期待ハズレに落ち込むだけだ。望美にも解ってはいるのだが、やはりこれはどこか違うのでは?と思わずには居られない。 「それじゃ、お前はどうして欲しいんだ」 「うーん……」 今更どうして欲しいと聞かれても、どう答えたらいいのか。どうせだったら、少し困らせてみようかな、と望美は唇の端を持ち上げた。 「それじゃあ今すぐ抱きしめてくちづけてください」 「なっ!」 案の定、顔を赤くした九郎は言葉も出ないのか口をきっちりと閉じたまま開こうとしない。 「嘘ですよ、冗談ですってば。九郎さんが出来ないのはわかってますから、今のはちょっとした悪戯です」 ほら、やっぱり。元から期待などしていなかっただけに、望美は笑って九郎のその反応を楽しんだ。これくらいの悪戯は許されて然るべきだ。怒ったらそう言ってやろうと思っていたのに、開いた九郎の口から出たのは、思いもよらない言葉で。 「すればいいのか?」 「へ?」 開いた口が塞がらなかった。ぽかんとした様子の望美に、九郎はごほんと咳払いをすると望美に先ほどのことを復唱した。 「だから、お前を抱きしめてくちづければいいのか? って、聞いたんだ。二度も言わすな!」 「え、ええ!? 九郎さんが!!??」 存外、自分も失礼なことを言ったな、と後程望美は思うほどの驚きようだった。九郎はそれに対してむっとしたようで、顔の赤らみが少し引く。 「お前、俺を何だと思ってるんだ?」 史上最強のヘタレ。という言葉を言ったら最後、喧嘩別れになることは容易に想像ついたので、望美は心の奥底にその言葉を沈めた。 「何だとって……だって、九郎さん滅多にそういうことしてくれないじゃないですか」 「あ、当たり前だろう! 妻となっていない清らかな女性に対して、そんな簡単に出来るか!」 「あぁ……私のこと、女だと認識してくれてたんですね」 「茶化すな!」 実際に望美は茶化してなどいない。戦時中の扱いからを思えば真剣に今の言葉に感動しただけなのだが、それを言っても最後になるのは解ってるので、大人しく九郎の言葉を待った。 「大体、友人に対してあんな振る舞いなどするものか。気持ち悪いとは思わないのか?」 「海外じゃ普通らしいですよ」 「ああ、解った……つまり、さっきの話はなかったことにしろということか。俺とするのが嫌なんだろう」 ついうっかり揚げ足を取ってしまったら、九郎の機嫌は一気に悪くなった。望美は慌てて「そんなことないです!」と言い募った。 「ただいつもの九郎さんじゃないから、少しビックリしただけで……!」 「俺らしくないことは重々承知している。ただ……お前が望むなら叶えてやりたいと思ったんだ」 それって裏を返すと九郎さんは望んでないってことなんじゃ……。 望美の心に影が落ちる。 「じゃあ、九郎さんはないんですか? 私に触れたいって思ったりすること」 「ばっ……そんなこと、言えるわけないだろう」 「言ってください、ないならないってはっきりと。言葉にしてくれないと、私解らない事もあるんですよ?」 恥ずかしがっているのか、そうじゃないかの区別くらいはつくようになったけど、時折九郎の態度は望美を不安にさせるものだった。そして、その不安を取り除けるのもやはり九郎だけ。 「ないわけがないだろう……俺だって男だ。正直時折お前の態度は困る。自制がきかなくなりそうで、俺はお前を傷付けないようにするのが大変なんだ」 諦めたように本音を漏らした九郎の言葉は恥ずかしいながらも嬉しくて、望美は自ら九郎に抱きついた。 「ふふっ、じゃあもっといっぱい困らせちゃおうかな〜」 「勘弁してくれ。振り回されるのはあちらの世界だけで十分だ」 本気で参っているらしい九郎に、望美がもう一度ふふっと笑い声を上げた。 「望美」 静かに呼ばれた声に、望美も静かに顔を上げる。その唇から紡がれる言葉を塞ぐように、九郎は望美の腰を引き寄せて優しいくちづけを落とした。 夕日の幕は落ち、月と星の光が差し込む道場内で二人は今しばらく動くことがなかった。 了 うわっ、ちょっと甘い?ちょっと甘い?? 私の中の糖度は、正月の小説が糖度No1なので、アレ以上のものを書こうとすると大変です。ってか、恥ずかしくってかけない。実はコレにもオチがあったりなかったり。 後日談↓ 「そういえば先生」 シュッと竹刀を振っていた一人の男子部員が、九郎を見上げてにっこりと笑った。翌朝の、早朝練習のことである。 「昨日のヒトって先生が隠して教えてくれない例の彼女さんですか?」 「え! 何? 先生彼女いるの!?」 それを聞きつけた他の部員がわらわらと集まってくる。 「そうそう、昨日俺忘れ物しちゃってさ。取りに戻ったら先生と女の人が抱きあ」 「わー!! 何でもない、何でもない! おい、お前たち! さっさと練習再開しろ!」 笑って喋り始めた男子の口を塞ぎ、九郎は集まってきた部員たちに怒鳴った。が、生徒たちは皆九郎が大好きで尊敬しているのだが、また九郎を使って遊ぶのも日課なのである。こういう類の話なると言うことを聞かずにそこから離れない。 「ねぇ、先生の彼女さんってどんな人?」 「後姿しか見てないけど、なんせ先生とキ」 無理やり九郎の手をもぎ取った男子部員が続きを喋ろうとしたものの、再び九郎の手によりそれは妨害される。 「さっさと練習だ!! お前も、変なこと言ってないでさっさと練習しろ!」 これ以上はさすがに九郎が怒るのは確定なので、男子部員も渋々といった感じで頷いた。他の集まっていた部員たちも散り散りになり、ようやく練習が再開されようというときだった。 「でも先生、キスするときはもっと場所を考えた方がいいと思いますよ?」 にっこりと笑った男子部員は飄々とそのまま素振りを始めた。男子部員の言葉の後、どかんと何かが爆発したように沸いたのは女子たちの歓喜悲哀興奮に満ちた悲鳴だった。 「きゃぁあああ! マジ!?」 真っ赤になった九郎の手から竹刀が落ち、しばらくは質問攻めに遭う九郎により、朝練が再開されることはなかったという。ちなみに、九郎のことを暴露したその生徒が何故か、黒い外套を羽織っているように見えたのは、気のせいだと思いたい。と九郎は切実に思ったらしい。 今度こそ了 Oh! 九郎さんモテモテだNE☆ 見られちゃった、みたいな♪ どうしてもやってみたかったネタ。九郎さんは彼女の存在についてはノーコメントで通してました。でも暴露されたので明日から大変です、みたいな。しばらくは同じネタでからかわれ続けることでしょう。(どうなのそれ) 20060522 七夜月 |