秘密




 偶然通りかかったジュエリー店の前で止まった望美が呟いた言葉。いつものように「わぁ、素敵…!」から始まり立ち止まること数分。店から出てきた若い男女二人、女性は幸せそうに小さな小箱を持って望美と九郎の前を通り過ぎていった。九郎は特に気にも留めてなかったが、それを目でじっと追いかけていた望美が一言ポツリと漏らした。

『やっぱり、エンゲージリングっていいなぁ。私にはまだ、ずっと早いけど』

 なんだ? と九郎が問い返す間もなく、望美はぐいっと九郎の腕を引っ張って、そのジュエリー店の前を通り過ぎた。

『だけど、なくっても一緒に居られるんだし。本当は必要ないのかも』

 屈託ない笑顔でそう言っていた望美の姿を思い浮かべ、九郎はくしゃりと頭をかいた。
 『エンゲージリング』というものがどういうものか解らずに、そのときは意味も解っていなかったが後日図書館という場所で調べてみると、『エンゲージリング』というのは結婚を申し込む際に男が女性に贈る指輪だという。
 きっと、九郎には解らないだろうことを解っていて、望美はそういったのだろう。だが、解らないからこその本音でもあった。望美が望んでいることは、いつだって意味を調べれば解ることなのだ。この世界に来て、九郎が学んだことの一つである。
 無機質に時計音が鳴る部屋の中、九郎は目の前に広げたエンゲージリング、またそれに関するパンフ、図書館の資料(借りてきた)を前にして、再び唸りこんで髪をくしゃくしゃにした。
 九郎も、望美が願うのならばそのエンゲージリングというものを望美にプレゼントしようと思っていた。が、その贈り物の意味するところを知った今では、その考えに躊躇いが生じる。エンゲージリングはそう易々とプレゼントしていいものではない。 相手に自分の生涯の伴侶として生きていくことを願うことなのだ。それを望美が受け入れてくれるかどうか。
 ……多分、受け入れてくれるだろうことは九郎にも解る。解るけれど、自分が考えていたよりも、こちらの世界での結婚というものは難しい。成人の儀というのも、全員が20歳を迎えてからだというし、九郎にとっては遅いのではないか?と感じてしまうほどだが、それがこちらのやり方なのだから"郷に入っては郷に従え"である。
 望美はまだその年齢に達していない。そして自分も、望美を幸せにしてあげられるかどうか、現時点では解らないことだらけで正直自信があまりない。何不自由なく暮らしていられた頃とは、やはり違っていた。
 だからと言って、後悔しているわけではない。兄と決別するか否かのあの時に、望美と一緒に生きる以外の選択肢は自分の中ではもう跡形もなく消えていた。それくらいに大事で、大切な人なのだ。
 だからこそ、大事にして大切な分、幸せを願ってしまう。何不自由させたくない、と思ってしまう。それが今の自分に出来るかどうか、と問われると少し自信がなくなってしまうのだ。
「こんな俺を見たら、お前達はどう言うんだろうな」
 弁慶辺りは、君は本当に馬鹿ですね。くらいのことは言いそうだ、と九郎は苦笑した。懐かしい仲間を時折思い馳せることがあっても、九郎はいつでも前に向かって歩いてきた。けれど今回ばかりは何も考えずに突き進む、というわけにはいかない。

 どうしたらいい?

 答えの無い問いに、静寂が応える。九郎は自分の額に手を当てると、それを軸として静かに机に寄りかかった。時計の針は変わらずに音を鳴らしている。止まることない時計の音。九郎は望美が引っ越し祝いにと以前に買ってくれた目覚まし時計を前に、文字盤を見つめ続けた。
 ただ時計の針は進んでいく。決して逆に回転する事は無い。デジタル時計であるから、一歩一歩、確実に前へと進んでいくのだと、望美が言っていた。カチッカチッと規則正しい音と共に進む針を見ていると、なんだか目の錯覚を起こすような、だけど不思議と気持ちが落ち着いてくる気がした。
「前に、行くしかないんだ」
 今も昔も、自分が出来るのはとにかく突き進むことだけ。止まることは死を意味したあの世界、九郎はいつだって走り続けた。だったら、今度のことも何を臆することがあるのか。
 望美を幸せにするのだ。出来ない? 違う、自分に残っているのが例え気持ちだけでも、今以上に笑っている姿を見るためにやれることはやる。だから、九郎は勢いよく立ち上がった。
「行くか」
 望美が覗いていたジュエリー店のカタログを握り締め、九郎は覚悟を決めた……というか、腹をくくったようで、靴を履くと玄関を開いた。

 数日後に望美の手に渡されるであろう指輪を注文する九郎の姿が、ジュエリー店の一角で見られたのは日常の1コマに過ぎない。




 頑張れ、九郎さん(拳グッ)そんな話。
 初めて九郎さんが望美ちゃんに秘密を持った話ってことで(何その説明口調)
 生かされてないとかそんなことは気にせずに!(涙)

   20060521  七夜月

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