20.一緒に帰ろう 1
「ああ、もう約束の時間に間に合うかな」
一応花火大会なので、浴衣で来ようかとも思ったが、家の中ならそこまでお洒落する必要もないし、結局いつもと同じように七分丈のジーパンと上にはワンピースという夏らしいスタイルで決めた。しかし鏡を何度も見直すうちに気付けば時刻がせまっており、望美は慌てて走るようにヒノエのマンションへと向かっていた。
少しだけドキドキワクワクしている。これが最後だからと自分に言い聞かせた昨日なだけに、今日だけは何もかも忘れて楽しもうと思った。ただ、二人で居られることを、罪悪感も忘れて楽しさだけを求めて。
急いでいたせいで、ヒノエのマンションに入る直前、エントランスで誰かにぶつかってしまった。
「きゃっ」
「わっ、すいません! 大丈夫ですか?」
「へ、平気です……こっちこそ見てなくてごめんなさい」
「望美さん、大丈夫ですか? それと君も、怪我は無いですか?」
名前を知らない人から呼ばれて尻餅をついた形でまじまじ見上げると、そこには栗毛色の髪の青年がいた。この顔、どこかで……そして、自分がぶつかった相手にも視線を向けて、望美はハッとする。
「あら、貴方……この間の、えっとヒノエくんと一緒に居た子だよね?」
写真で見て実際にも見た彼女は一度面識があることに気付いたようで、とても柔らかい微笑を浮かべて望美に手を差し出した。どうやら彼女は倒れなかったようだ。
「ヒノエくんに会いに来たの? 実は私たちもなの……でも、お邪魔しちゃうかな?」
「………………」
驚きすぎて声が出なかった。その人の笑顔は他人を幸せにすることが出来る、本当に…本当に優しい顔で、望美にはこんな笑顔を浮かべるなんてこと、到底無理である。
「貴方、大丈夫? どこかぶつけたの?」
「望美さん、少し待ってください。どこか様子が変です」
栗毛色の髪の青年は、望美ではなく彼女を見て望美といった。もしかして、と嫌な予感が胸をよぎる。
「名前……あなたの名前は?」
ようやく口に出せた言葉が向こうには意外だったらしく、一度きょとんと首を傾げたが、快く名乗ってくれた。
「私は藤原望美、こちらの藤原弁慶さんは私の旦那様なんだけど、ヒノエくんとは叔母と甥の関係なの。だから安心してね。ちなみに望美は望月の望に、美しいって書くんだ、名前負けなんだけどね」
冗談っぽく付け加えられた最後の一言が、望美へのトドメだった。
漢字も全く一緒の、『藤原望美』に、望美の思考が停止する。完全なる、オーバーヒートだった。
最初からこの期限付きの『お付き合い』は浮かれるべきことではなく、ヒノエに自分を好きだという勘違いを解かせるためだった。だから、何も期待してこなかったのに、最後の最後に望美は期待してしまった。改めて今、自分が正真正銘の代役だったことを思い知る。
ことのほかそれがショックで、望美は曖昧に笑いながら差し伸べられた手を取った。
「あ、ヒノエくん? わたしだけど」
藤原望美の手を取り、望美は立ち上がって腰についた埃を叩く。その間にも藤原望美はインターホンを押して、ヒノエへと繋いでいた。
「その声は……望美? なに? オレ、これから用があるんだけど……」
ヒノエの口から発せられた「望美」という名。勿論それが、望美に言われたことではない。いつも春日と口にするのが彼だ。そんな彼が藤原望美の名を言うだけで、心が軋んだ。
何故、こんなにも優しい声音で話すのだろう。そしてその相手は私じゃない。
用があるといったヒノエの言葉により、藤原望美と弁慶の視線が望美に向いたので、望美は首を横に振った。
「大丈夫です、すみません。えっと、違うんです。私、今日は別に藤原くんに逢いにきたわけじゃなくて、近くを通ったのでたまたま寄っただけなんです。用事があるので、これで失礼しますね」
「えっ?」
驚く二人に何か言葉をかけられるほどの余裕が無い。
お辞儀をしてから、まるで脱兎の如く望美は逃げ出した。訳がわからないけれど、胸が苦しかった。
自分のことではないからこそ、名前を呼んでいるヒノエの声音がいつもよりずっとずっと優しくて、なんだか泣けてきた。
泣くもんか、と口許を引き締めて自宅への道を引き返していると、着信音と共に携帯電話が鳴る。
液晶には『藤原くん』と出ていた。
「もしもし」
『もしもし春日? 望美たちから帰ったって聞いて驚いた。どうかした? 何かあった?』
「別に、親戚の人が来るんだったら邪魔できないし。それにさ、藤原くん。やっぱり無理だったんだよ私たち。一週間居たけど、やっぱり私キミの事好きになれなかった。ごめんね」
『春日……? なんでいきなりそんなことを』
「何もないよ。ただ気付いたの。やっぱり私とキミとじゃ合わないって。それにさ、もー初恋の人の身代わりにされるのも疲れちゃった。ヒノエくんもこれで解ったんじゃない? 私があの人の代わりになれないってこと。だからさ、もうやめよ? 一日早いかもしれないけど、契約期間終了。元々一週間って約束だったんだし、ちょっと終わりが早くなっただけだよ」
ボロが出ないように、息もつかぬほど喋り続ける。それでも、明るさだけは失わなかった。
あくまで、終わりは笑って今までの事全部冗談に出来るようにしなくちゃいけない。
『待てよ、ちゃんと納得できるように話しよう』
「話すことなんて何もないよ。確かに急で悪かったかもしれないけど、決まってたことなんだし今更でしょ。それじゃ、もう切るね。夏休み明けたらさ、普通の友達として接してよ。バイバイ」
『待てよ、春日――!』
ヒノエくんの制止の声を聞かずに私は携帯電話を切った。ついでに、そのまま電源も切る。
ないかもしれないけど、また電話がかかってきたときにどう対処したらいいか、何ていったらいいのか今は思いつかない。
「あーあ、本当に終っちゃったなぁ」
こつんと、携帯電話を額に当てると、無機質な冷たさが熱くなってる目頭をひんやりとさせる。けれど、瞼の熱はそれでも引かない。つまんなかったといえば嘘になるほど、楽しかった日々。自分から引導を渡したくせに、物悲しくなって望美は歩みを止めた。今は家にも帰りたくない。誰とも喋る気がしなかった。そして、花火大会まで時間もまだある。
「そうだ……」
去年見た場所を思い出して、残るはそこしかないと望美はそちらに向かって歩き出した。
了
後書
けじめって必要だと思うんだ。っていうか、このネタってある意味夢(ドリーム)なんじゃ……。
20061029 七夜月
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20.一緒に帰ろう 2
………現在お客様がおかけになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かない場所に――。
「チッ! 電源切ったのか」
携帯電話の電源ボタンを強く押して、ヒノエは半袖を羽織った。ジーパンの後ろポケットに財布をねじ込み玄関へ向かおうとすると、藤原望美が不安げにヒノエの前に出てきた。
「ヒノエくん?」
「悪いけど、オレ出かけるから」
藤原望美の肩を押しのけて出て行こうとするヒノエの腕をとって止めたのは、弁慶だった。
「ヒノエ、僕たちは話をしにきたんです」
「アンタと話すことなんて何もない。こっちは急いでんだよ」
「そういうわけにも行きません。もしも度が過ぎるようなら一人暮らしの件だって考えなければならなくなります。現に君はこの間熱を出したでしょう」
掴まれた腕を強引に振りほどき、ヒノエは弁慶を睨んだ。
「お前らの勝手な都合でそんなコロコロ変えられてたまるかよ。オレはここから離れない、言いたいことはそれだけだ。特に不自由しているわけでもないし、たいした病気もしていない。夜遊びだって最近控えてんだろ。もう、行くぜ。帰ってくれ」
乱暴にドアを開いてヒノエは外に出た。後ろから藤原望美と弁慶の声が聞こえていたが、無視だ。
「ヒノエ!」
「ヒノエくん!」
今は一刻も早く望美の元へ行くことが先決になる。ヒノエはエレベータを待っていられず、備え付けの非常階段を飛び降りながら望美の後を追いかけた。
「春日……!」
様子のおかしかった望美、十中八九あれは泣いていた。なのに、声だけでも無理に明るく笑い話しにしようとしていたから、余計に納得できない。
すぐにも見つかることを祈りながら、ヒノエは必死になって走り続けた。
「有川!」
偶然駅前を歩いていた将臣の姿を見つけて、ヒノエは恥も醜聞も捨てて大声で呼んだ。
対する将臣はそんな風に呼ばれる覚えがなく、面倒くさそうに振り向くが、相手がヒノエであると知った途端に表情を引き締めた。
「藤原かよ、なんだよ」
「春日見なかったか」
「さぁ、見てねぇな」
出そうな舌打ちを押さえ込んで、ヒノエは踵を返すがそれを察知して将臣がヒノエの前に立ちふさがった。
「どけよ」
「嫌だって言ったら?」
「力づくでもどかす」
「お前にしちゃ、随分余裕ねぇな?」
くくっと、腹を抱えて笑う将臣に、ヒノエのイラつき度が更に上がる。
「生憎、お前とふざけてる場合じゃねぇんだよ」
「ふーん、なんでお前がアイツを探してるのかは知らねぇ。けどよ、お前さ、アイツ探してどうするつもりだ? どうせ期限は今日で切れるんだろ?」
余裕な態度を崩さない将臣も、実は平静を保つのに大いなる忍耐を駆使していた。今すぐにでも目の前の相手をぶん殴ってやりたい衝動に駆られながらも押さえているのはひとえに忍耐力の高さと評するべきだろう。
「お前に関係ないだろ」
「アイツの居場所聞いといて関係ないもないだろ。どうせ他の奴らと同じように遊ぶんだったら、アイツじゃなくてもいいんじゃねぇ?」
「遊ぶ……? オレが春日と? 春日がそう言ったのか?」
思っても見なかった将臣の言葉。いや、思っていたとしても、自分ではそんなつもり微塵もなかった。確かに最初に話しかけたのは好奇心が強かったかもしれない。けれど、脈のない女の子にいつまでもくっつくなんてみっともない真似、ヒノエはプライドが許さない。けど、そんなプライドさえも捻じ曲げられるほど、望美を欲しいと思った。
「いいや、ただ、アイツは身代わりだから一週間もすればお前が気付くって言ってた。アイツじゃ身代わりにはなれないってことがな」
「春日が身代わり……そういえば、さっきの電話でもおかしいこと言ってたな」
電話のとき、望美が発したのは将臣が言った言葉と同じように身代わりという言葉。
『初恋の人の身代わりにされるのも、疲れちゃった』
電話越しに聞こえてきた声が蘇る。あの、望美の態度が急変した日、いつもは伏せている写真立てがちゃんと立っていた。おかしいと思っていたが、もしやあの時にあの写真を見て誤解をしたのだろうか。
望美と名前も背格好も一緒の藤原望美を、ヒノエが今でも好きで、叶えられぬ恋に望美を手に入れることで満足するとでも。
「……はっ、なんだよ、それ」
冗談じゃない。見くびられたものだと思う。ヒノエの中で、もうとっくに藤原望美とのことでは決着がついていたのである。確かにあの時は熱のうわ言で自分もいらぬことを喋ったかもしれないが、まさかそんなことがこんなところで影響して、勘違いさせる原因を作ったのだとしたら、それだけは訂正しなければならない。
出逢った時から、とっくに望美という存在にヒノエは惹かれていたのだ。藤原望美とは全然違う春日望美という存在に。
「遊び相手をこんな必死になって追いかけたりするわけないだろ」
「本気? お前が? 冗談だろ? 信じて欲しければ、ここでオレに頭下げて頼んでみろよ。望美の居場所は何処ですか?ってさ」
将臣からは全く信用されておらず、ヒノエも自分の今までの女性関係の遍歴からすれば信じてくれと言えるだけの確証を持ち合わせていなかった。けれど、将臣は自らその証拠となる行為を要求してきた。ヒノエにとって、これが最初で最後のチャンス。
ゆっくりと、ヒノエは公道で座り込むと、将臣の前で土下座した。
「頼む、春日の居場所を教えてくれ」
「…………」
本当にやるとは思ってなかったのだろう、将臣は一瞬口を開いたままヒノエを凝視した。
「この通りだ」
地面に頭をつける勢いで頼み込むヒノエを見た将臣はがりがりと頭をかいた。
「…………ったくよ。冗談じゃねぇぜ、まったく。おら、さっさと立て。お前のせいで目立っちまったじゃねぇか」
他の通行人の目が痛くなってきた将臣は指で合図をしながらヒノエを立たせた。
「アイツを見てねぇのは本当だ。けど、今日は花火大会だろ? アイツ毎年この花火大会楽しみにしてんだ。だから、どっかで見てると思う。もしかしたら、会場に近いところに行ってるかもしれないしな」
「花火大会……」
この間アイスを食べたとき、望美が嬉しそうに話していた去年の花火大会。
『私は去年偶然発見した秘密のスポットから見てたんだけど、そこより見えるのかな?』
『場所は秘密。言ったら秘密じゃなくなっちゃうから』
『私とヒノエくんが良く知ってるところ、かな』
もしかしたら、望美はそこにいるのかもしれない。家に電話をかけても帰っていないらしいし、こうなったらそこを推測して向かうだけだ。手当たり次第、何か一つでも心当たりがあるなら時間がかかってもヒノエは回りきるつもりだった。
ヒントにあった、望美とヒノエがよく知ってる場所。まだ外でデートもまともにしたことがない二人がよくいたのは学校だ。じゃ、まさか学校に? 学校の立地条件を正確に脳内でなぞって、小高い山に立てられているあそこなら、少し遠くはなるがどこからでも花火が見えるはずだ。
見えた自分の行くべき場所が、ヒノエを呼んでいる。そんな風に思えるほど、ヒノエは胸内で酷く確信が持てていた。きっと場所は間違いない。花火が上がるまであと15分。今から学校に向かえば、終るまでには間に合うかもしれない。
「……わかった、有川……悪かったな」
また駆け出そうとしたヒノエは一度だけ足を止めると、将臣に謝罪した。将臣のほうに顔は向いていない。だが、将臣だって今ヒノエがどんな顔をしてるか想像がついてしまったので、冗談を言うだけに留める。
「素直にお礼を言えっつーんだ」
「それはまた晴れて両思いにでもなったときに言ってやるよ」
走り出したヒノエに後ろからかけられた言葉。自己解釈とは解っていても、なんとなく温かく感じ取ってヒノエは苦笑した。
「はっ、さっさと行って振られて来やがれ」
「冗談」
敵に塩を振ってどうすんだよ。けれど、こんな将臣が望美の幼馴染だったからこそ、望美は今まであまり傷つかずに過ごしてこれたのだろう。
今まで望美を守ってきた将臣に本当に少しだけヒノエは感謝した。
了
後書
ごめんなさいホント石とか投げないでくださいすみませんすみませんすみま(黙)
20061029 七夜月
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20.一緒に帰ろう 3
教室から見る花火、それが去年見た特等席の花火だった。他に誰も居ないけど、窓を開ければ花火の音が聞こえてくる。静かに厳かに咲いて散る花。
去年は確か、学校に来なければならない用事と重なっちゃったせいで、学校から花火大会を見学するハメになったのだ。でも、誰も居ない教室を陣取って見るのは意外どころか盲点だった。歓声も何もない、ただ望美しかいないけれど、それでも金色をした火薬が空に舞って散っていくのはいつもみたのと同じで、なんとなく涙が出た。
当時は一人で見るのが寂しいわけじゃなかったと思う。でも、初めは家族で行ってた花火大会もそのうち友達と行くようになって、でも予定が合わなくなり結局バラバラになって去年初めて一人で花火を見た。
涙が出た理由は多分、一人で見ても二人で見ても、誰と見たときとも花火が変わらない音で上がってるのに、教室にはただ望美しかいないことで孤独感や隔離感が際立ったせいだったのかもしれないと今は思っている。
結局、寂しかったのだ。一人で見ても誰と見ても、とても綺麗な花火だけど、一人で見るには儚すぎた。
でも、今年は一人じゃなかった。約束した人が居た。だから、浮かれてしまったんだと思う。その人にとって自分が一緒に花火を見たい人ではなかったとしても、それを忘れてしまった自分が全部悪い。
机に頬杖をついて、望美はボーっと空を見上げていた。鏡となっている窓ガラスに、自分の顔が映っていた。そしてその瞳には、見えているけれど見えていない、色とりどりの花火たち。
「あーあ、バカだなぁ。何やってんだろ、こんなとこで一人で。余計虚しく感じる」
涙はとっくに引いていた。でも、なんだか胸がスースーする。そして泣いたせいで頭が重くてモノを考える判断力が著しく低下していた。
「…………?」
何かが通った気がして、見下げたグラウンド。茶色い土の上に描かれた石灰がまるで白い花火みたいで、望美は苦笑した。やはり見間違いのようだ、誰も居ないし、何も見えない。
「帰ろ、もうそろそろ花火終るし」
花火は好きだけど、もうあと少しで終幕だろう。それをここで一人で見るのはさすがに精神が痛まれる。虚しさだけが残る花火大会なら、美しい想い出のまま終らせたほうがいいだろう。
「…………っ」
突然浮かんだヒノエの顔。望美はかぶりを振った。
「違う、違う違う違う……! なんで、急に……!」
頭を抱えて必死に振りかぶった。それ以上、考えてはいけない。胸を巣くうこの喪失感も、何も、理由を考えちゃいけない。そう自らに言い聞かせて、帰ろうと席を立った。
その時、廊下を誰かが走る音が聞こえてきて、望美は動きを止める。まるでまっすぐとここに来るように、よどみない足音に、少し恐怖心が湧く。まさか幽霊とかそういう類じゃないよね……?と息を潜めて足音が通り過ぎるのを待とうとした。けれど、早く通り過ぎてという願い叶わず教室のドアが開いてしまい、望美は覚悟を決めてぎゅっと目を瞑った。しかし、
「春日っ……!」
「ヒ、ノエ……く……?」
聞き覚えのある声が聞こえてきて、望美は目を開く。そこには、顎に伝う汗を拭いながら、望美を見つけた安堵感に心底ホッとしたような優しげな顔をしているヒノエがいた。
「やっぱ、ビンゴだった。良かった、あの日お前がこの場所のヒントをくれてて……」
「………なんで、来たの? もうやだって、私言ったよね。キミのこと、好きになれないって」
「お前がそれでよくても、オレは良くないんだよ。誤解も解かなきゃいけないし。とにかく、話を聞いてくれ」
「………いや。聞きたくないし、話すことももう、ない」
「春日っ」
じりじりと近付いてくるヒノエを危惧して、望美は荷物を胸に抱えると逃げ出した。廊下に飛び出て、階段を駆け下りる。
「春日!」
後ろからヒノエが追いかけてくるのが解って、望美は上履きのまま校舎を飛び出した。そのまま、なるべく姿をくらませやすい裏庭の方へと向かう。そこにあるのは、隣接している林と水泳部が使っている野外プール。
薄暗い裏庭なら、ヒノエの目も誤魔化せると思ったのだが、足音でバレているし、視界に入るほど追いつかれてしまっていた。
「こないで!」
足止めとして望美が荷物を投げつけるも、ヒノエはそれを簡単に避けた。
所詮男と女の差。距離が縮みつつある二人の間はあと数センチ。
最後の希望として、望美は少し開いていたプールの扉へと飛び込んだ。目の前の景色がめまぐるしく変わる。水浴びのシャワーを越えて緑色のゴム床に足をとられ、躓いたところで腕をつかまれ抱き寄せられる。けれど、走ってきた勢いは止められずに、そのまま二人はプールの中へ落ちた。
一際高い水柱が立ち昇り、服のままプールに落ちた望美は引き上げられて水面に顔を出す。
「ぷはっ…! ゴホゴホッ……!」
咳き込む望美を心配して顔を覗きこむかと思いきや、ヒノエは引き上げた望美の身体を強く抱きしめた。
「ちょっ、離してよ……!」
「…………」
「ねぇ、聞いてるの!?」
「……やっと、捕まえた」
ヒノエからこんなにも切羽詰った声を聞いたのは、望美は初めてだった。
ギュッと、胸が締め付けられて、望美は離れようとヒノエの腕の中でもがく。しかし、びくともしない。
「お願い、離して」
「嫌だ」
「やだ……離してってば!」
「離したら逃げるだろ!」
少し怒気を含んだヒノエに、望美はハッとしてヒノエを見上げた。今まで怒ったところも一度だって見たことない。こんな色んな姿のヒノエを見るのは戸惑ってしまう。
「もう、絶対に離してやらない」
「どうして……追いかけてきたりしたのよ。話は終ったでしょ?」
じんわりと、望美の目尻に涙が浮かぶ。泣かないと決めたから絶対に涙は見せまいとしてきたのに、ヒノエはそれに気付いて望美の目尻を優しく拭った。
「終ってないよ。お前の誤解を解くために、オレは今ここにいる」
まるで、望美が知らないヒノエばかりに今日は出会う。
こんなに真剣なヒノエを見ることが出来るとは、かなり珍しいのではないだろうか。いつも本音を綺麗に隠して上手に自分を魅せている人だから、飾らない素のままのヒノエ自身を望美が知るよしもない。
けれど、望美がそうやってヒノエについて気付いてしまったのは、ずっとヒノエを見ていたからだ。そうして、気付かないように無理やり閉じ込めようとした気持ちを、ヒノエがきたせいで望美も誤魔化しようがなくなってしまった。
「ホント、ヒノエくんはバカだよ……絶対に忘れるはずだったのに……」
ツーッと、一筋の雫が望美の頬を伝った。
「絶対に好きになんてならないって決めてたのに、なんで追いかけてくるの……!」
「そんなの、決まってんじゃん」
ヒノエくんは望美の頬に伝う涙を拭って、本当に優しく微笑んだ。心の底から愛しいという想いが滲み出る、そんな笑顔。
「お前が好きだからだよ」
了
後書
微妙なところで切ってみた。だって長いんですもの……!!
20061029 七夜月
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20.一緒に帰ろう 4
「お前が好きだからだよ」
彼から告げられた言葉は、一体何度目の告白だろう。その言葉を信じたい自分が、望美の中で暴れだす。
ちゃぷんと撥ねた水に、木々の間からもたらされた花火の赤い光が水に反射して望美を照らした。濡れた髪に光沢が現れて、二人の髪の色が混じる。
「勘違いしてるみたいだから言っておくけど、最初からオレが好きなのはお前だよ。春日が望美と全く違うって言うのは、見てたら解る。白状すれば最初は背格好が似てるなって思った。だけど見つめるうちに望美とは全然違った春日の一面をたくさん見つけて、オレは気付けばお前が好きになってた。春日は誰かの代わりなんかじゃない。お前だから、好きになったんだよ」
「……だって、そんなの……!」
言いかけた望美の言葉を遮るようにして、ヒノエは望美の目尻を指で押さえた。思わず浮かんでいた望美の涙が流れることなく押しとめられる。
「じゃなきゃ、有川に頭下げてまでお前の居場所探したりしない。土下座なんて初めてした。公道の真ん中でアイツに向かってさ、格好悪いだろ」
そのときを思い出してるのか、ヒノエは声を出さずに笑った。望美はそれもまた信じられなくて目を丸くする。あのプライドの高いヒノエがそんな恥を捨てるようなことをするなんて。
「でも、それだけ必死になってでもお前を見つけたかった。誤解してるなら尚更解きたかった。確かに春日の言ったとおり、これは期限付きの恋人だけど、オレの気持ちだけはなんとしても伝えたかったんだよ」
望美の胸に響くその言葉は、頑なだった彼女の心を溶かしていく。冷めてしまった胸の奥が暖かくなっていく。
その時初めて、望美は顔をゆがめてヒノエの胸に埋めた。
「私、ずっとヒノエくんの好きな人は藤原さんだと思ってた」
彼女の事を思っているから、望美のことなんか好きにならないと思い込んでいた。けれど、もしもそれが杞憂だというのなら、この見ぬ振りをしていた気持ちと向かい合ってもいいのだろうか。
最初から解ってれば傷つかないと思っていたけど、望美の目論みはすぐにも破られる。毛嫌いしていたときとは打って変わって、一つ一つ彼を知ったことで望美の心は彼へと向かった。
周りの子が言っていたように、ヒノエは付き合ってみれば確かに紳士だった。そして、真摯でもあった。
周りの子が知らないようなヒノエを知って、望美は動揺した。益々彼から目が離せなくなった。
そんな関係に無意識に本当の名前とは摩り替えて別の名前で蓋をした、それなのに、望美の心は惹かれることを止めなかったのだ。
「確かに昔好きだったのは否定しないけど、でも今は違うよ。何でか解る?」
首を振る望美。解らない、けど、自分は本当は解っているかもしれない。ヒノエがその時、プッと笑った。
「さっきから言ってるじゃん、オレが今好きなのは春日望美だって。お前と出逢って、こんな風な気持ちになったのは初めてだ。なんとしても手に入れたくて、手に入ったら絶対大切にして守りたいなんて思わせられたのはさ」
「クサい台詞」
「姫君がお望みならば何度でも言うよ」
「ふふっ、望んでなんかないよ」
望美の腕がヒノエの背中へと回される。
「信じていいの?」
「もちろん」
「信じちゃうよ」
「信じて」
望美は躊躇った後に、頷いた。傷つくかもしれないという思いはまだ片隅に残っていた。けど、その思いもいつかはヒノエの手によって薄れる気がする。そんな風に思えるほど、彼から与えられた熱が温かくて安心することが出来た。
ゆっくりと望美は目を瞑る。ヒノエの熱い体温が唇を通して伝わる。
すぐに離れた唇、赤らめた頬で俯き震える望美の手を掴んだヒノエは反対側の手で望美の腰を引き寄せた。
驚いた望美が顔を上げたのを逃さずに、再び重なり合った口付けは今度こそ望美を捉えて離さなかった。
花火がとっくに終ってるのにも気付かぬほど、周りが見えない二人の初めてのキスは、少しばかりの塩酸のにおいと、どこか懐かしい水のにおいで包まれていた。
「あーあ、ビショビショだね」
「水も滴るいい女だよ」
「ヒノエくんは?」
「もちろん、水も滴るいい男」
「随分な自信だね、そういうところ変わらないんだ」
「性格まではさすがにね。お前が嫌だって言うなら、考えるけど」
「いいよ、今は嫌じゃないから」
森を抜けて、途中で投げていた荷物を拾ってから、望美たちは靴に履き替え校庭を歩いていた。プールに落ちたせいで髪から全部ずぶ濡れだ。寒くは無いけど、それでも少し冷え冷えする。
くしゅんと望美がくしゃみをする、するとヒノエが望美に手を差し伸べた。
「ホントだったら、上着を貸してあげたいけど見てのとおり濡れてるしさ、よかったらお手をどうぞ、姫君」
「風邪引いたら困るしね」
まだヒノエに近付くには理由が必要だけど、それでも望美にとっては大きな進歩だった。差し伸べられた手を掴んで、笑った。
「これからもさ、こうして手を繋いで帰ってもいいってことだよな? 今日だけじゃなくて、明日も明後日も」
指を絡ませられた望美。その指先にヒノエはキスを落とす。その行為自体には顔を赤くして照れてしまったけど、望美はそれを拒否しなかった。
「いいよ」
期限付きの恋は、無期限に変わった。二人の関係はまだ始まったばかりでも、これからがある。
ゆっくりと、お互いのペースで進んでいけばいい。
「さぁて、一緒に帰ろうか」
「うん」
ちょっと考えた末に望美は引かれる手に近付くために一歩だけヒノエの傍に寄った。身代わりの時にはあった一定の距離が縮む。
身代わりなんてものが存在しない、これからが、二人の本当の恋。
了
後書
ふはは、恥ずかしい、ね! だってキスとか書くのも恥ずかしかったよ?口付けより照れるキス。うおおおお、自虐行為かこれは!!
と、とはいえここまでお付き合いくださり、本当に有難うございました!
ここまでの話数を使って両思いになる話を丁寧に?かけて良かったです
お題消化にかこつけた割にはそれぞれの話数の長さがバラバラになってしまったのでそこは要反省(がくり)
温め続けてた作品の一つなので、宜しければ感想をくださると嬉しいです☆
20061029 七夜月
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