深紅



 それは深い記憶。
 炎の燃える邸、倒れ行く家屋、泣き叫ぶ自分に伸ばされた腕。
 大丈夫だ、千鶴。大丈夫だよ。
 ずっと大丈夫と、声が聞こえていた。
 抱きしめてくれる腕は温かくて、抱きしめてくれた人も千鶴と同じように泣いていた。
 燃えていく、崩れていく、千鶴の大切なものが全部あそこにあるのに、炎は全部飲み込んでいく。

 あそこには、まだのこっているの。
 とうさまとかあさまがいる。
 おねがい、はなして。かえりたい、あそこにもどりたい。
 とうさまとかあさまのところへ。

 だが、千鶴は薬を嗅がされて、燃える炎は揺らめく残像を残して、真っ黒になった。



「いやだ! ちづるがいかないのに、どうしておれだけいくんだ!」
「我慢なさい、薫。千鶴は熱があるのよ、薫だけでもいってらっしゃい」
「いやだ、ちづるもいっしょにいくんだ! だってやくそくしたんだよ。いっしょにケーキをたべるって」
「大丈夫よ、きっと薫が帰ってくる頃には千鶴も元気になってるわ。せっかくなんだからいってらっしゃい」
 枕元でされる会話を、千鶴は朦朧とする意識の中、聞いていた。
「かおる?」
 小さな声で薫の名を呼ぶと、母親と言い争っていた薫が千鶴の枕元までやってくる。
「かおる、ごめんね。いっしょにいけなくてごめんね」
「やくそくしたじゃないか」
「うん、でもかおるはいってきて。みんなたのしみにしていたから」
 薫は千鶴の言葉に途端に顔を曇らす。嫌がっているのは一目瞭然だったが、それでも薫は否とは言わなかった。
「ちゃんとねてるんだぞ、ちづるのぶんもケーキもらってくるから」
「うん、ありがとう」
 熱で上気した顔でも、千鶴は笑った。母親が薫を見送るために背中を押して部屋を出て行ったのを確認してから千鶴は起き上がると、ベッドのすぐ脇に備え付けられている窓から外を覗く。広間より続く玄関からすぐに薫と母親が出てきた。薫が千鶴の居る部屋を見上げる。千鶴が小さく手を振ると、薫も振り返してから迎えの車に乗り込んだ。薫を乗せると車はすぐに発進し、中庭から門のほうへと走っていく。車が見えなくなるまで見送って、千鶴はベッドにもぐった。
 今日は千鶴の4歳の誕生日だ。本当ならば千鶴も薫と一緒に車にのって、友達の家へ遊びに行くはずだった。千鶴と薫の誕生日パーティをしてくれるはずだったのだ。だが、楽しみすぎて興奮し眠れなかったせいか、千鶴は当日になって熱を出した。
 本当に楽しみにしていたから、当然ながら行きたいと母親に訴えた。しかし、答えはノー。千鶴はこうしてお留守番することになったのである。
 本当は見送りなんて嫌だったけど、千鶴のせいで薫までいけなくなったら楽しみにしていた薫にも、準備をしてくれた友達もみんな悲しむのよ。と母親に説得されて、渋々留守番を承知した。そうして布団の中でぐずぐずしていると、軽く布団を叩かれて、千鶴は頭だけ出した。
「かあさま?」
「残念、母様じゃなくてすまないな。久しぶりだね、千鶴」
「おじさま!」
 千鶴を起こしたのは、父親の兄に当たる人物だった。千鶴の伯父は医者をしている。この人はとても優しい。逢うたびに千鶴や薫にお菓子をくれる。千鶴は大好きな伯父に抱きつくと、伯父を見上げた。
「またとうさまのところにきたの?」
「違うよ、母様から呼ばれてね、熱を出したそうじゃないか。ほら、お口開けてごらん」
 額に手を当てられて、千鶴は言われたとおり口を開く。すると、伯父はライトを取り出して千鶴の喉奥に光を当てた。それを見た伯父は千鶴が安心するような笑顔で頭を撫でてくれた。
「少し腫れているけど、大人しく寝ていればすぐに治るよ。ただの風邪だ」
「ほんとう? あしたになったらみんなとあそべる?」
「大丈夫だよ、だからゆっくりおやすみ。元気になったらまた二人にお菓子をあげようね」
「ありがとう、おじさま!」
 千鶴はそれだけで少し元気になった気がする。伯父に促されて再び布団の中に入る。頭を撫でてくれる伯父の優しさに甘えて、眠るまでずっと伯父の手を掴んでいた。

 千鶴は知っていた、伯父が久しぶりと言いながらも、頻繁にこの家にやってきていたことに。以前に一度、トイレに行きたくて起きたとき、伯父と父親が言い争っているところを聞いたのだ。あの時、父親がひどく伯父を罵倒していた。なんだか父親が知らない人のような気がして、怖くなった。いつも千鶴や薫にはあんなに優しいのに、どうしてそんな伯父をいじめるのか、千鶴は知らなかったからビックリしてしまった。トイレに行くのも忘れ、部屋に戻って薫の布団にもぐりこんだ。
「ん……? ちづる?」
「いっしょにねよう、かおる」
「どうして?」
「なんだかこわいの。とうさまがすごくおこってるの、おじさまにすごくどなってた」
 震えている千鶴の手を握って、薫はいつもの意地悪な声でなく真剣に答えてくれた。
「うん、わかった。いっしょにねよう」
「ありがとう、かおる」
 そして薫と一緒に手を繋いで眠った。翌日の朝、父親と話をしたとき、父親は千鶴の知っている父親だった。
 それから、夜になると、父親の怒鳴る声で度々目が覚めるようになった。なのに、翌朝になると父親はいつもどおりなので、きっと何かの病気なんだと千鶴は思っていた。だから伯父が来て、父親を治療してくれているんだとばかり思っていたのである。
 千鶴は伯父を尊敬していた。だから、一度だけ聞いた伯父と父親の会話は意味がわからないまでも尊敬していたのである。千鶴は伯父が大好きだった。

 千鶴は夢を見た。伯父と父親が争っている夢だ。
「もうこれ以上、あの子に薬を飲ませるな! 兄さんのした実験を俺が知らないとでも思ってるのか!?」
「そんなことは解っている! だが、この薬は中毒性が高い、依存しなければいずれあの子も狂い始めるかもしれない」
「高熱で死にかけたあの子に薬を与えると決めたのは確かに俺たちだ。だが、あの子は一生この薬を飲み続けるのか? 一生、狂うかもしれない恐怖と戦わせるというのか、そんなのはまともに生きているなどと言えない!」
「ならばどうしろというんだ。ただの肉塊と成り果てるあの子を見続けろというのか!」
「兄さん、もう実験はやめてくれ。兄さんのしてることはただの人殺しだ」
「やめる……そんなこと、出来るはずがない。もう取り返しのつかないところまできているんだ」
「今ならまだ間に合う、兄さん。俺は、もうこれ以上兄さんが壊れるのを見たくない」
「壊れる? 馬鹿を言うな、私は正常だ。これからもずっとそうだ。私は正常なんだ、自分がしていることの罪を、忘れるわけにはいかないのだから」
「兄さん……そこまで背負っていて何故……」
「始まってしまったことは、もう止められないんだ。解ってくれとは言わない。だが、あの子だけは必ず助ける、そう約束しよう。私はこの薬を完成させる」
 伯父は苦しげな表情で父親を見ていた。これは誰の記憶だろう、知らないうちに千鶴の見ている夢だろうか。千鶴は夢なら早く覚めればいいと自分の身体を強く強く抱きしめた。


 





   20120108  七夜月

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