深愛 無理やり生まれたての我が子をこの腕からもぎ取られ、気が狂わんばかりに私は叫んだ。 逃げる途中、知らぬうちに脱げた靴をそのまま素足で走った分、取り返そうと一歩踏み出すたびに足の裏が痛む。寒さを忍ばせるためにと羽織った上着は途中で子供を包む産着に変わっていた。 待ってください、お願いです、その子はさっきまでこの腕にいたんです。この子まで私から取り上げないで。この子を取り上げられたら、私にはもう、何も残らなくなる。 「返して、返してください!」 「こんな忌み子、何の価値もないけれど、我が家名を汚すことだけは許されないの」 やめてください、私からその子を取り上げないでください。 その子は大切な子なんです。私の大切な子なんです。 あの方を愛した、私のたった一つの誇りなんです。 「さようなら、もう二度と私たちの前……この子の前に姿を現さないで」 我が子を失くしたその胸を、とんと軽く押された。私の身体は簡単に宙に浮き、地面のない空を飛んだ。 私が最後に聞いたのは、あの子のか弱い泣き声とまるで仮面を被ったような冷たい貌をした女の姿だった。 ぴたぴたと廊下を歩く音が、途端にぺしゃんとした音に変わって、私はシーツを持ったまま振り返った。 「千鶴さま? 大丈夫ですか?」 「ふぇっ、いた……いたい、えっ……えく……!かおるぅ……!」 泣きだしてしまった幼い子の前に座り込んで、よしよしとその頭を撫でてやる。この子は私が勤めているお屋敷のお嬢様、千鶴さまである。だが、このお嬢様が泣くとナイトのように必ず現れるのが……。 「ちづる、またころんだのか?」 「かおる!」 お嬢様の顔がパッと輝く。双子である兄の薫さまが来ると、このお嬢様は必ず笑うのだ。とても仲の良いご兄妹で、私はいつも微笑ましい。 「千鶴さま、廊下を走ったら危ないですよ?」 「だって、かおるがいっちゃうから」 「薫さま、千鶴さまを置いていったらダメですよ。男の子なんですから、女の子はエスコートして差し上げなければ」 「だって、はやくしないととうさまがかえってきちゃう」 「ゆっくりで大丈夫です。ほら、まだお車の音は聞こえません」 耳に手を当ててそう言うと、二人の子供も真似をする。そして顔を見合わせると、ホントだ!と飛び跳ねる。 「こーら、二人ともはしたない。お父様に怒られちゃう」 そう言って二人の子供を抱き上げたのは、この子たちの母親であり、この屋敷の奥さまだ。 「佐藤さんの仕事の邪魔しちゃダメ」 めっ、と唇を尖らせて叱る様を見ていると、ついくすりと笑みが漏れる。本当に、この奥さまは少女のように奔放な方だ。 「奥さまの真似をなさってるんですよ」 「佐藤さんまでじぃみたいなこと言わないでよ」 とても奥さまとは思えないほどの嫌そうな顔。お金持ちとは思えないこの人柄は、使用人含めとても皆に親しまれていた。 彼女は私のことを佐藤さんと呼ぶ。それが私が彼女から賜った名前だ。 約四年前、いつの間にか病院で目覚めた私の傍には、この人が居た。びっくりしたように目を丸くして、そして私と目が合うと「こんにちは」と声をかけた。 「私のこと、誰だかわかる?」 知らないので素直に首を横に振ると、彼女は頷いた。 「そうよね、自己紹介まだだったものね。初めまして、私は……」 「自己紹介の前に、目覚めたことを医者に教えるのが普通だと思うんだが」 苦笑とともに、押しのけられた女性は「綱道さんひどい。女性同士楽しくお話していただけよ」と怒っている。 綱道、そう呼ばれたこの人は医者なのか、白衣を着て私を覗き込んでいる。 「気分はどうですか?」 ふるふると首を振る。 「自分の名前はわかりますか?」 私の名前、なんだったろうか。あの人は私をなんと呼んでいただろうか。 それよりも、あの子は無事だろうか、最後に聞いた泣き声が頭から離れない。夜の寒さで弱ったあの子の泣き声。 「名前が解らないなら、貴方の名前、私がつけてもいいかしら?」 突然、医者の後ろから明るい声をあげて、先ほどの女性は手をあげた。 考えていた私の思考は彼女の声により逸らされる。 「佐藤さん! 佐藤さんにしましょう!」 それはもう、決定事項のようだった。 「何故佐藤?」 と、問うたのは医者。 「日本で一番ありふれた名字ぽいでしょう? 当たる確率が高いわ」 「そんな理由か?」 「ええ、そんな理由です」 そして女性は笑った。 「よろしくね、佐藤さん」 名前なんてどうでもよかった、佐藤でも伊藤でも、なんだって。 名前よりも大事なものを私は失ってしまったから。 「薫さま、千鶴さま、良いこと教えて差し上げます」 二人の子を地面へと下した奥さまが、お二人と手を繋ぐ。 「先ほど調理場の方から甘い香りがしましたよ。今日のおやつはなんでしょうね? ケーキでしょうか?」 『おやつ! ケーキ!』 「あら、母様も楽しみ! 何かしら、ふふ、とっても楽しみね!」 お二人だけでなく奥さままで目を輝かせて、旦那様をお迎えに大広間へと向かう。私はシーツを綺麗に折りたたんで、クリンネス室へと置いてきた。 ここでお世話になって、もう三年は過ぎた。あの時お腹の大きかった奥さまからは無事に薫さまと千鶴さまのお二人が生まれて、私も一緒に成長を見てきた。英才教育のおかげか、普通よりも早くから喋っていたお二人はお世話係を仰せつかった私にもよくなついてくれている。お世話係といっても、育てているのは奥さまだ。奥さまの手の届かないところを、私が少しお手伝いするだけ。奥さまの愛情はお二人にも伝わって、とても素直な良い子に育っている。薫さまは千鶴さまよりほんの少し脳の発達が早い。だから知識の吸収も早く世間から見れば生意気ととられてしまう言動もたまにしたり、千鶴さまをいじめることもあるが全部愛情の裏返しだというのは傍にいればよくわかる。 旦那様のお帰りを、お子様二人が抱きつきながら迎えている。私たちは頭を下げてお迎えするのが決まりなのだが、どうしても視線が低い分お二人の行動が良く見えて、くすりと笑ってしまう。 『とうさま、おかえりなさい!』 「とうさま、ぼく、きょうあたらしいもんだいとけました!」 「ちづるもとけました!」 「ぼくがさきだよ!」 「でもちづるもとけたよ!」 「二人ともわかった、わかったから落ち着きなさい」 両足にしがみつかれて、旦那様は困り果てている。持っていた鞄とコートを奥さまに渡して、二人を抱き上げた。 「あとね、きょうじぃにほめられました!」 「ちづるだけじゃないです、ぼくもほめられました!」 やんややんやと騒ぎ立てるお二人に、旦那様はとうとう苦笑なさってお二人の話を聞きながら歩き出した。まるでサラウンドスピーカーのように両腕のお二人が一緒になって喋る。奥さまもそれを傍でにこにこと見守っている。 このご家族は素敵だった。本当に愛情に満ちたご家族。私が持っていなかったものを持っている。理想の中の理想、それはとても羨ましいことだった。 「千鶴さま、薫さま、今日は何をしましょうか」 お勉強の時間が終わり、休憩を挟んだらお二人の遊戯の時間だ。この時間だけは何をしてもいい、それは奥さまからも言われていることなので、頼まれたら絵本を読んだり、一緒にお絵かきをしたりしている。 「あのね、あのね、きょうはちかげくんもいっしょでいいですか?」 千鶴さまに袖を引かれて、私はすぐに頷いた。ちかげくんというのは、千鶴さまの婚約者の方を指す。仲良くなったのか、最近は彼が遊びに来ると一緒にいることが多い。 「ぼくはいやだ! だったらちづるだけあそんでいればいいだろ!」 「かおる、いじわるいわないでいっしょにあそぼう?」 「ぼくはいかない。あそばない」 「千鶴さま、では千鶴さま千景さまと遊んできていただけますか? 佐藤が薫さまのお相手を務めます。千景さまをお待たせしてしまいますよ」 千鶴さまは何度も薫さまを振り返っていたけれど、結局は待ち切れなかったのか駆け足で部屋を飛び出していった。 千鶴さまの足音が聞こえなくなった部屋に静寂が落ちる。薫さまは無言でスケッチブックとクレヨンを握っている。 「薫さま、何を描いてらっしゃるんですか?」 「なんでもない」 「ああ、千鶴さまですね。可愛らしいですね」 だけど、絵の中の千鶴さまは決して笑っていなかった。泣きそうに顔をゆがめている。泣き虫な千鶴さまだからこそこんな表情はしょっちゅうしているが、薫さまがその表情をあえて選んだ理由が解ってしまって、私は薫さまの頭に手を乗せた。 「寂しいですね、千鶴さま嬉しそうでしたものね」 「べつにさびしくなんてない!」 「ふふふ、薫さま、本当は寂しくて泣きたくなってしまったんじゃないですか? だから千鶴さまが代わりに泣いてらっしゃるんですよね」 「さとうはいじわるだ」 「あらあら、薫さまに嫌われてしまいました」 私の胸に飛び込んできた薫さまが私のエプロンをぎゅっと掴む。いつも一緒だったお二人だからこそ、寂しいのだろう。他にもお友達はいたけれど、千鶴さまが今まで薫さまよりも優先する相手なんていなかった。 「大丈夫ですよ、薫さま。薫さまと千鶴さまはご兄妹なんです。兄妹は強い絆で結ばれているから、決して離れたりしないんですよ。たとえお二人が離れ離れになってしまったとしても、必ずまた一緒にいられるようになります」 薫さまの背中を撫でながら、私は確信めいたようにそう言う。そうであって欲しいという願いも込められているけれど、きっとこのお二人なら大丈夫。 将来を思えば、違う道を歩むのは確かだけれど、それでも永遠に血のつながりは消せない。死ぬまでお二人はご兄妹だ。 「さとうもおなじ?」 顔をあげた薫さまは、私に問いかける。 「なにがですか?」 「さとうもいっしょにいられる?」 誰と、という言葉は薫さまの口からは出なかった。だから私は少しだけ首を傾げてから、ゆっくりと首を横に振る。 「わかりません、佐藤には何もありませんから」 「佐藤」の名前に過去はない。「佐藤」が持つのはこのお屋敷でのことだけ。 「でも、薫さまが望んでくださるだけ、佐藤は薫さまと千鶴さまのおそばにおりますよ」 薫さまをそっと抱きしめる。この小さなお身体で将来雪村家を継ぐために様々なことを習われている薫さま。勉強量も千鶴さまの二倍、もっと遊びたいお年頃だろうに、全部我慢していらっしゃるのだ。 「佐藤は薫さまが大好きですよ、千鶴さまのことも大好きです」 「ぼくもちづるも、さとうのことすき」 満足そうに薫さまは息を吐いた。 もうすぐ五歳になる男の子。いつかこの家を継ぐ男の子。私に居場所を与えてくれるこのお屋敷が、私はとても好きだ。 「大好きです」 ええ、大好きです。ここはとても居心地の良い場所。何も無いわたしには不釣り合いな場所。けれども、もう少しこの場所で過ごしていたい。いつかちゃんと、お二人に自分自身を誇りに思えるようになるためにも。薫さまの小さな体を抱きしめて、私は頬を緩めた。 「さとうさん! きょうはえほんがいい!」 「では、シンデレラにしましょうか?」 「シンデレラ! すてきなおはなし!」 「シンデレラなんてつまらないよ、こっちにしよう!」 「あらあら、薫さまの本はピーターパンですね」 柔らかい日差しが降り注ぐ午後。お庭で座っている私の膝の上には千鶴さまが、背中には薫さまがいらっしゃる。 「だってしんでれらってがらすのくつをおとすおはなしだよ、けっきょくみつかるんだから、べつにいいじゃないか」 「あら、薫さまだっていつか、ガラスの靴を落としたお姫様を探す日が来るかもしれませんよ」 そんな日はこない、と喚く薫さま。逆に千鶴さまは頬を膨らませながら薫さまに言う。 「そんなことないよ、かおるにもきっとおひめさまがあらわれるんだから」 「そんなのいらないよ」 私はふふっと笑った。今の薫さまのお姫様は間違いなく千鶴さま。だから、薫さまに千鶴さま以上のお相手が見つからない限り、おそらく本人が言うようにお姫様は見つからないだろう。 「さとうさんには、おうじさまいましたか?」 突然に千鶴さまが目を輝かせながら尋ねてきた。やはり女の子だからこういったことに興味があるのだろう。珍しく薫さまも興味深々な表情でこちらを見ていた。 「そうですね、さとうには王子様じゃなくて、王様がいましたよ」 「? おうさま?」 「はい、王様です。いつもはしかめつらをしてらっしゃって、何もお話ししてくださる方ではありませんでしたけれど」 「佐藤」になる前の私には、全てだった人。厳格で他人にも自分にも厳しくして、弱みを見せようとなさらない人。私があの方の子を身ごもることがなければ、私はおそらく今もあの方の傍にいただろう。 「こわいひと?」 と、千鶴さまが少しだけ泣きそうになりながら私に聞いた。 「いいえ、ちっとも。とても孤独だから、お可哀想な方でした」 そういったところで、お二人にはまだ通じないだろう。私は千鶴さまの頬を撫でた。 「おうじさまはいないの?」 「小さい王子様がいます」 「? ちいさいの?」 「はい、お二人と同じ年なんですよ。佐藤のたった一人の息子です」 そういうと、お二人は途端に表情を明るくする。 「おなじとしなら、おともだちになれる?」 「ええ、もしいつかお会いしたら友達になってあげてください」 今は一緒に暮らすことは出来ないけれど、いつか時が経ったら、あの子を引き取りたいと思っている。一緒に暮せた日々はほんの数日だった。けれども、あの子の温もりを未だに忘れたことなどない。柔らかくて、とても温かかった。そう、このお二人を初めて抱き上げた時に、涙が止まらなかった。同じように温かいこのお二人の成長を、私はあの子と重ねてきたから。 お二人が一歳、二歳と歳を重ねていく喜びを、私は全部重ねていた。 「なります、ちづるおともだちに!」 「ぼくだってなる!」 やっぱりこのお二人はとてもお優しい。奥さまと旦那様からこんなにも愛情を受けて、他人を思いやれる心をお持ちのお二人なら、きっといつかあの子とも友達になってくださるかもしれない。いつか、本当に、あの子と会える日が来たなら。 → 20120108 七夜月 |