私と貴方、そしてはじまり 1



 雪村千鶴は地図を見ながら思案顔で溜息をついた。初めてやってくるこの街の地理は当然ながら詳しくない。先ほども人に道を尋ねたが、入り組んだ路地の構造をしているせいで、どこを曲がってきたのかもうわからない。
 要するに迷ってしまったのである。地図にある行き先と駅からの道のりはさほど遠くはないはずだった。とはいえ、バスを使って指定された停留所で降りて、さあ進もうと思って今まで歩いていたが、ここはどこなのだろうか。
「……うーん、誰かに声をかけたほうがいいよね」
 とは思うものの、今が夕暮れなせいか家路へと足早に歩いていく人波に声をかけるタイミングがなかなかつかめない。
 とぼとぼと肩を落としながら歩いていると、公園を見つけた。しかもその隣には交番まである。天の助けだとばかりに千鶴は顔を輝かせると、「あの!」と声をかけながら交番に駆け込んだ。
「すみません、少し道を……」
 勇気を振り絞ってかけた声、だがそれは中に居た人たちには届かなかった。
「どうちてわたちとけっこんしてくれないの?」
「ちがうわよ、あたちとしゃのしゃんはけっこんするの!」
「ガキはひっこんでなさいよ、さのさんはあたしとけっこんするんだから!」
 小さな子供が三人、年はだいぶ若い。ええと、5歳くらいだろうか。戸惑いながらも千鶴は判別した。その中の一人がかろうじて黄色い帽子と黄色い鞄そして園児服らしきものを身に纏っていたので幼稚園生だとわかった。その園児たちと視線を合わせるように警官一人がかがみこんでいる。それを脇で椅子に座りながら、呆れたように見ているもう一人の警官。
「あー、お前ら嬉しいんだがなぁーそういうことはもっとデカくなってから言ってくれ」
「おい左之、てめえこんな小さな子に手を出したら児童ポルノ法でこの俺が逮捕してやるからな」
「…………」
 千鶴は固まった。なんだか今自分はすごく場違いな気がする。そして動けなくなった千鶴に気づいたのは、警官ではなくお子様集団の一人だった。
「……おねえさん、だれ。まさか、おねえさんもさのさんねらいなんじゃ……」
 目が剣呑に光ってる。とてもじゃないが幼稚園児には見えないその威圧感。女として千鶴は負けている、正直怖い。
「あの。私道を聞きたくて……」
 少々怯えて後退しながら千鶴が言うと、椅子に座っていた警官が顔を上げて、それにつられるように幼児の相手をしている警官も顔を上げた。
「お、そうかお嬢ちゃん、悪かったな。で、どこに行きたいんだ?」
 千鶴が差し出した地図を受け取ったのは児童に囲まれていた警官だった。確か「左之」と呼ばれていたような。
「あー、こっちじゃないな。ここに行きたいなら逆だ逆。ここを出てすぐの道を一本戻って、左にずっと歩いていけばでかい道路にぶち当たるから、その道路を道なりにまっすぐ進んでいけ。そうしたらこの目印の店が見えてくる。そこの店の脇を右に曲がればすぐに着くさ」
「あ、ありがとうございます」
 千鶴が慌てて頭を下げると、そのやりとりを見ていた子供たちがいっせいに不満を述べ始めた。
「ちょっとさのさんくっつきすぎ!」
「そんなにむねのあるおんなのひとがいいの?!」
「おねえさん、さのさんひとりじめずるい!」
 なんだろう、この会話。千鶴は引きつる自分の口元を手で隠してから、今再び左之と呼ばれた警官と奥に居る警官に頭を下げた。
「本当にありがとうございました、失礼します」
 脱兎のごとくという言葉は恐らく的確だった。千鶴は交番を出てからすぐさま走り始めて、言われたとおりの道を危なっかしい足取りではあったがなんとか進んだ。少なくとも、自分があの場にいて良いことは何もおこらなそうだったので、自分の選択は間違っていなかったと後々も胸を張って言えるだろう。
 交番が見えなくなってから一旦立ち止まり、千鶴は息を吐く。まずは大きな道に出なければならない。歩みを再開させると、向こうの方から走ってくる人がいる。千鶴は邪魔にならないようにと避けたものの、相手も千鶴に気づいていたのか、避けてくれた。ただし、千鶴が避けた方向と同じほうに。
 走ってきた人から体当たりのような状態で必然的にぶつかってしまい、千鶴は転びそうになる。だが、すぐにも相手が体勢を立て直したのか、千鶴の腕を引いて助けてくれた。地面に倒れることなくなんとか踏みとどまれ、千鶴は安堵の溜息をついた。
「ごめんな! 大丈夫か?」
 同じくらいの年頃だろうか、制服を着たその少年をまじまじと見て、千鶴は頷く。
「オレ急いでてさ、避けたつもりが同じ方向に避けちゃったんだな」
 少年は頭をかきながら罰が悪そうに笑った。なんとなく千鶴も落ち着いて、微笑を浮かべながら首を振った。
「こちらこそ、上手く避けられなくてごめんなさい」
「いいっていいって、オレが走ってたのが悪いからさ。じゃ、オレがいうのもなんだけど、もうぶつかられないように気をつけてな!」
 少年はそのまま千鶴が来た道を辿るように走っていってしまった。不思議な出会いというのもあるものだ。
 それから道順を頭に描きながら道路を歩いてようやく目的地に着いた。家からここまで幾度も迷い、だいぶ遠回りをしたような気になったが、とにかく着いたのだ。
「松本先生、いらっしゃるかな」
 千鶴は不安になる思いで、松本診療所と書かれたその家のチャイムを押した。

 雪村千鶴には父が一人いた。母は昔亡くなっている。父がずっと片親なりに千鶴を育ててきてくれていた。だが、ある日借金取りに騙された根のいい父は保証人の連帯責任として莫大な借金を抱えることとなった。父はお金の工面をするために方々駆けずり回り、そしてとうとう保証人の友人の足取りがつかめたとのことで、ある日千鶴は父に呼ばれた。
「千鶴、もうわかっていると思うが。この家が差し押さえられるのも時間の問題だ」
「……」
「だからこそ父さんは不当な請求として訴えようと思う。だが、お前をここに置いておくことは出来ない。危ないんだ、それはお前もわかるな?」
「はい、わかります」
 借金取りの執拗な追いたては千鶴をも苦しめていた。学校の付近をうろうろして、一人になったところすぐにも声をかけてくる。スーツを着た大の男二人に取り囲まれて、怖くないはずがない。暴力的なことをされるならまだ反撃の余地はある。だが、そうではないのだ。ただひたすらに手荒とまではいかない手法で千鶴を責める。精神的に辛い。
「父さんは法的には負ける材料を持っていない、だが勝てる材料もない。知人の弁護士の方を通じて出来るだけ穏便に事を運びたいとは思うが……何を仕掛けられるものやら」
「だったら、父さんだけ危ない目に合わせるわけにはいかないよ! 私も一緒に…!」
 声を上げた千鶴を諭すように、父は手を挙げる。
「もちろん、父さんも危ない目に遭いたいわけではない。私自身ほとぼりが冷めるまで身を隠すことになるだろう。だが、幾らそうしたとしても、二人一緒に行動していればいずれは二人とも危ない目にあう可能性は否定できない。父さんの言いたいことはわかるな?」
「………はい」
 父になんの力添えも出来ない自分が悔しくて、千鶴は唇を噛み締めた。今まで二人で頑張ってきた、母のようにおおらかな愛で自分を包み込んでくれた父とこんな形で袂を分かつことになるなんて。
 そんな千鶴の思いを汲み取ってくれたのか、父は微笑むように挙げた手をそのまま千鶴の頭に乗せてくれる。
「なに、心配するな。何もかも終わったらすぐにお前を迎えに行く。そうしたら、また二人で暮らそうな」
「……はい、父さん」
 それが、父と最後に交わした約束だ。それから千鶴は荷物をまとめて父に言われた人を訪ねて、住み慣れたこの街を出た。診療所を営む父は遠くへ出かけることはない。あったとしても学会の発表や仕事関係が多くて、千鶴は父と遠出をしたことなどなかった。
 こんな形で新幹線に乗るなんて、千鶴は乗り方すら満足に知らず逐一駅員に聞いた。新幹線の中でもずっと父のことが気がかりだった。だけど、連絡は取れない。それも約束したのだ。お互いが接触する痕跡をなくすと。父から朗報をもらえるまで、千鶴は待ち続けることを選択した。それが父にとって一番いいのだ。父が動きやすければきっと二人でまた暮らせる日も近くなると思っていたから。



 





   20090122  七夜月

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