お買い物 2



 朝の通勤・通学ラッシュを終え、朝とは打って変わって静まり始めた道場の前の道に、一台の黒塗りベンツが静かに近づいてきた。車はゆっくりした動作で門の前で止まると、窓が少しだけ開いて若い男の顔が見えた。
「……ふん、なるほどな。足跡がなくなったかと思えば、こんなところに住んでいるとは」
 男は値踏みするようにしばらくその道場を車の中から観察していたが、五分もしないうちに窓を閉めて、運転士へ声をかける。
「出せ」
「はい」
 男の言葉に従って、運転手はアクセルを踏み始めた。道場からどんどん男は遠ざかっていく。だが、男の目は見えなくなるまでずっと、ルームミラーで道場を注視していた。

 千鶴の朝は支度ラッシュから始まる。早起きとはいえ、千鶴よりも早起きする人がいるのも事実で、彼らは朝食を摂る前に道場で身体を動かしている。大抵の場合が斎藤と土方、そしてたまに新八も加わって、三人で組み稽古をしているらしい。なので、彼らが戻ってくる前に千鶴は朝食の用意をするのである。
 朝食の支度をしながら、洗濯機も回して完全な「ながら」作業でことを進めていく。二人分のときとは比べ物にならない大きな炊飯器は電気ではなくガスで炊くようで、毎朝八合炊いても決して余ることはない。炊けたご飯を蒸らしているうちに和食メインのおかずを作る。千鶴の家も父親の影響で朝は和食だったので、定番の卵焼きと味噌汁、それに朝から食べても重くないようなものをメインに据えるのが通常。
 だが、たまに平助のように寝坊する人間のためにも、千鶴はトースターも準備して、悲鳴のような声が聞こえたのを合図に食パンを二枚焼く。酷くうるさい足音が聞こえてきたらそれも目安になる。朝食を摂らずに出て行こうとする平助のために、焼いたパンを持ちやすいようラップで包んで時間があるようなら学校で食べてもらうようにしている。千鶴に時間があれば簡単なサンドイッチにもするが、平助のほかにも朝食を摂らない人間がいるので、今度はその人間に食事をさせるのが千鶴の朝の戦いになる。朝食を度々抜いていつの間にか学校に行こうとするのが沖田だ。当人がいらないというものを無理に進めるべきではないと誰に言われようとも、千鶴は朝食抜きだけは許さなかった。
 食べていくのが嫌ならと沖田にもやはりパンかおにぎりを持たせて、食べても食べなくても朝食は手渡すようにしている。だが、平助の話によると、渋々ながらも沖田はちゃんと食べているようで、千鶴はホッと胸を撫で下ろしていた。
 もちろん、昼食の準備も一緒にしなければならない。皆それぞれ給食が出るわけではないので、千鶴がお弁当を作る。朝食と似通ったおかずが出てしまうのは仕方ない。前日の残りを工夫しておかずとして詰め込んでいる日もあれば、朝食とほぼ同じなおかずのときもあり、お弁当の本でも買って勉強しようかと考えている。
 朝食分の洗いものを済ませて、一息ついたら今度は洗濯で、八人分と一日に出る量がすごく多いのため三十分近くかけて干す。天気がいい日ならまだしも天気が悪いと時間も量も二倍になり、次に晴れた日に干すのは大変だ。
 それが千鶴の朝のサイクルになりつつある。午前中の特に朝の殆どがそれに費やされるので、大抵みんなが出払った時から午後になると暇になるのだ。近藤がいると二人でのんびりと縁側に座ってお茶をすすったりもするが、今日は千鶴一人だ。
 縁側で、というわけではなかったが、居間で一息ついていると、原田が頭を掻きながら居間に入ってきた。
「はよ、千鶴ちゃん」
「おはようございます、原田さん。今日はおやすみですよね?」
 新八から今日は原田は休みと朝聞いていたので、原田の分だけ別に朝食をとっておいた。ご飯をよそい、まだ目が覚めてない原田の前に準備すると、一呼吸ずれて答えが返ってきた。あくび付で。
「ふぁ〜……そうそう。久々に非番だからいつもより寝てた」
「いつもよりって言っても、そんなに寝過ごしてないですよ、もうすぐで十時になるくらいですし。ゆっくり食べてくださいね」
 原田に水の入ったコップを手渡しながら、千鶴は笑った。いつもは役職のせいかキリキリした態度を見せる原田なだけに、こんなところを見ると意外で笑ってしまう。
 原田が食事を終わらせるのを待ってから、千鶴は片付けて彼にコーヒーを入れる。平助はまだコーヒー自体はそんなに好きではないようだが(千鶴も同感だ)、目が覚めないと口癖のように言いながら原田が飲むため、さすがに覚えた。
「ありがとな」
 お茶の淹れ方なら千鶴も父が飲むため戸惑い無く入れられるのだが、コーヒーはいまだに手探り状態だ。
「不味かったら言ってください、淹れ直しますから」
「ん? ああ、これで十分。別に俺は通じゃねぇし、そんなに味まで気にしなくていいから」
 そして原田は新聞を開いて読み始める。
 しかし、それは決しておいしいから生まれる感想ではないような。千鶴は聞きそびれたことを後悔した。
 夕飯の献立を考えるために料理本とにらめっこしながら買い物メモをとっていると、ふと視線を感じて千鶴は顔を上げた。
「あの、何かついてますか?」
 原田の視線がかなり熱く千鶴に向けられていた。千鶴は自分が開いているページを見て、首を傾げる。
「もしかして食べたいものありますか?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど。千鶴ちゃんさ、ここにいて辛くなったりしねぇか? 見知らぬ男たちと暮らしてんだぞ」
「大変じゃないといったら嘘になってしまいますけど、辛くはないですよ。皆さんいい方々ばかりですし」
「警察って仕事をしてるのにここにいる俺が言うのもなんだが、あんまりほいほい他人についてくもんじゃねぇぞ。あとでどうなるかわかったもんじゃないからな」
 疑り深いのかと思いきや、原田の様子を見る限りだと、どうやら千鶴を心配してくれているらしい。沖田にも似たようなことを言われたことがあった。
 ここの人たちはやっぱりみんないい人だ、と千鶴は原田の心配を他所に考えていた。
「今、俺たちっていい人だなあとか考えなかったか?」
「はい、皆さんいい人たちですから」
「……なんというか、天然なんだろうな。総司が言ってた意味もなんとなく解った」
「なんですか?」
「なんでもねぇよ」
 原田は自己完結して溜息をつきながら首を振った。会話が終わったのかと千鶴は再び料理本に目を落としていると、一息ついた原田が立ち上がった。
「千鶴ちゃん、今夜のメニューは決まった?」
「はい? ええ、大体ですけど」
 呼ばれて顔を上げると、千鶴に向かって原田が鍵を突き出した。
「買い物付き合ってやるよ。後ろに乗りな。準備できたら玄関に集合でいいだろ?」
「いいですいいです、原田さんお休みなんですから、ゆっくり休んでください!」
「荷物持てないで後から斎藤に車出してもらう羽目になるなら、最初から誰かついてった方が早い。というわけで、決まりな」
 原田は機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら玄関に向かう。千鶴も既定の生活費が入ったお財布を自室に取りに行くと、言われたとおりすぐに玄関へとやってきた。原田は既に外にいるようなので、千鶴も戸締りを確認してから原田の姿を探す。
 きょろきょろ辺りを見回していると、家の庭からバイクを押して歩いてくる原田が見えた。服装はいつの間に着替えたのか、ライダースーツ着用だ。
「バイクは風が結構当たるから、温かい格好してきた方がいいかもな」
「あ、上着一応持ってきました」
 今日の外の天気ならいらないかとも思ったのだが、習慣的に手にして外にきたため、千鶴の手には上着が握られている。
「服装も露出少ないのがバイク乗る条件なんだが、千鶴ちゃんはまあ元から男装してるしな……っと、外でちゃん付けはマズいな。これから呼び捨てにするけどいいか?」
「はい、大丈夫です」
「了解、じゃあ、これ被って」
 原田からヘルメットを投げられて、千鶴はそれをキャッチする。ヘルメットなんて被ったことがないので、四苦八苦しながらそれをつけると、先にバイクの調整をしていた原田がバイクにまたがったまま振り返った。
「じゃあ、後ろ乗って。ステップに足を乗せて俺の腰に捕まったら、降りるときまで絶対離すなよ。あと、バイクは曲がるとき車体傾けるんだけど、怖くないから反対向いたりしないように気をつけてくれ」
「は、はい!」
 バイク乗るなんて初めての体験で、千鶴が緊張した面持ちで頷くと、ヘルメットの窓を開けて原田は笑う。
「そんなガチガチになるほど怖くねえよ、大丈夫だって」
 言われたとおり、千鶴は原田の後ろ座席に腰を下ろすと、背中から抱きつく形で手を前にしてクロスした。
「そうそう。本当に離すなよ。それじゃ行くぞ」
 遠慮がちだった千鶴の腕を引っ張って、がっちりと抱きつかせる形にしてから、原田は自分のヘルメットの窓を閉めて発進した。
 千鶴が思っていたよりもずっと、バイクは隣を車で走ってる以上に体感速度が速かった。ヘルメットの中で小さく悲鳴をあげる。風もものすごい風圧で、おそらく後ろで捕まってるだけの千鶴よりも、原田の方がまともに風を受けているんだろうと思うと、その寒さに身が凍えそうだった。だが、スピードにも風にも慣れてくると、ようやく千鶴は心の余裕が出てきて、周囲を窺うことが出来るようになった。頭を動かすと危ないといわれたので、視線だけ動かす。
 やはり車よりも断然早く感じる。速度としては変わらないのだろうが、生身が出ている状態だとどことなく不安感がある。下を見たらとても怖そうだったので、原田の背中に頭を押し付けるようにして、千鶴は必死に耐えた。
「…………おーい、千鶴ー。着いたぞー」
 あまりにも背中にしがみついていて、周りの状況が見えなかった千鶴はそういわれて初めて目的地に自分が居ることに気づいた。
「ははっ、そんなに怖かったか?」
 原田は人事のように笑っているが、千鶴にとっては大問題だ。ヘルメットを取りながら、地面を足につけて大きく息を吐いた。
「バイク乗るの初めてだったので、ビックリしました。随分速いんですね」
「だろ? もし怖くて帰り乗れないようなら、バスが出てるからそっちで帰ってもいいぞ? 荷物は全部持っていってやるからさ」
「いえ、あの、たぶん大丈夫です」
 最後のほうが小声になったのは、自信がなかったからなのだが、原田は何も言わずに苦笑して頭を撫でてくれた。
「無理すると逆に危ないからな。帰りはバスか…それとも誰かに拾ってもらうか。まあ、時間取れるのは斎藤くらいだろうが」
「いいえ、もし本当に駄目そうだったらバスで帰りますから」
 引け腰なのは解っていたが、千鶴はとにかくそう答えていた。なかなかバイクの後ろに乗る経験などないので、今回はいい経験ではあったが、恐怖心はさすがにすぐには拭えない。
「悪かったな、平助は喜んでついてくるタイプだが、千鶴はそうじゃねぇもんな。とりあえず買い物先に済ませるか」
「は、はい」
 バイクを駐車させに行く原田を待つ間、買い物籠をカートに入れて千鶴は手で押し始めた。


 





   20090212  七夜月

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