編入生 1 突然なんだがなあと切り出した近藤の言葉は、確かに千鶴にとっては突然だった。 「学校……ですか?」 言われた本人としてはあまりにも突拍子がなさ過ぎるその言葉にいささかついていけなかった。 「やはり君はまだ若い。家事手伝いも立派な仕事だとは思うが、学業は若いうちこそ身にいるものだ。俺は君に学んでほしいと思っている。もちろん、学費などは心配しなくて構わない、いくらかツテがあってな」 「あの、お気持ちは嬉しいのですが……今のままでも十分良くしていただいているので、これ以上は」 何を恐れ多いことを言い出すんだと、千鶴が恐縮して首をすくめると、近藤は頭を振った。 「すまないな、困らせるつもりではないんだ。だが、学問を学ぶことは、大事なことだと思う。機会があるなら君には是非受けてもらいたい。将来、君のために繋がるだろう」 近藤にそこまで言わしめせてそれ以上千鶴が遠慮をするのはかなりの至難の業だった。 「はい…あの、本当にお気持ちは嬉しいんです。でも、学校と言っても今は男装して過ごしてますし」 千鶴からもっともなことを言われて、近藤もむむっと唸った。 「ああ、実際は申し訳ないが……そう、君には平助と総司の通っている学校に行ってもらう事になるだろうな」 「平助くんと沖田さん……て、男子校ですか!?」 いや、男装しているのは確かで、男子校と言われてもなんら不思議ではないかもしれないが。 「一応君を男装させているからには、さすがに女子として学ばせるのはどうかとトシに言われてな……もちろん、君に何かあったら困るからこそ、平助と総司がいる学校にしたわけでもあるが」 近藤の言葉はもっともで、確かにその通りではあるが、だが、男子校で過ごすとなると諸々の事情が絡むわけであり……たとえば体育はどうするのか、などなど。 千鶴は唸るように口を閉ざした。しかし、千鶴には選択肢などないのではないか。元からお世話になっているのだ、言いなりになる、というわけではないが、厚意を無碍になど出来ようはずがない。 「あの、ボロ出さないように、精一杯頑張ります」 千鶴がそう答えると、近藤はホッとしたように、というよりも千鶴が思っていた以上に喜んだ。 「そうか、行ってくれるか! 君には申し訳ないことばかりだが、少しでも外の世界に出て息抜きをしてくれ。と、言っても息抜きになるかどうかはわからんが……いや、しかしこれも勉強だ! いつか、君が大人になったときには必ず役に立つと俺は思うぞ。頑張ってくれ」 近藤からの言葉はおそらく…いや、間違いなく悪意はない。純粋に千鶴を想って言ってくれているのがわかるからこそ、千鶴は不安な気持ちを押し隠して頷いた。近藤の期待には出来るだけ応えたいと思う。少なくとも、お世話になっている身なのだから、それくらいはしたい。 したいのだが、いざこうして男子校の制服に身を包んで見知らぬ校舎を土方の後をついて歩いていると、心細くなってくるのも道理で、千鶴の視線は先ほどから下を向いたままだ。今が授業中で本当に良かったと、心から安堵する。 近藤のツテ、というのがどういうものかは知らなかったが、土方に連れられて今から千鶴が行くのは校長室らしい。何故案内役を土方が買って出たのかというと、以前からこの学校で外部講師として招かれているからという話ではあったが、素直に案内役を務めてくれる土方が不思議でたまらなかった。 「おい、着いたぞ」 「あ、はい!」 ぐるぐる考え込む頭を振り深呼吸を一つして、千鶴は眼前にそびえる木製の扉をノックした。 「失礼します」 「はい、どうぞ」 中から聞こえてきた声に、失礼しますと声をかけ、千鶴は校長室のドアを開けた。一歩踏み入れて、部屋の奥の机でなにやら書き物をしている人物に千鶴は頭を下げた。 「雪村千鶴といいます、本日はお忙しい中すみません」 書き物をしていた人物は顔を上げると、千鶴を見てにっこりと笑った。そして席を立つと早足で千鶴の下へとやってきて、その手を握ってまるで振るように握手した。 「やあ、初めまして。僕がこの学校の校長をしています、大鳥です。君が近藤さんや土方くんが言っていた子だね。事情は聞いているよ。僕も出来る限り協力するから、今日からよろしくね」 「は、はい!」 大鳥と名乗った人物は人当たりのいい笑顔を千鶴に向けている、どうやらこの人も表情どおりの人間のようだと安心して、千鶴は微笑み返した。 「大鳥さん、コイツのことは……」 いつの間にか入ってきた土方が大鳥に何かしらの視線を投げると、大鳥は心得ているとばかりに頷く。 「解っているよ、大丈夫だ。まだ知っているのは僕と理事長だけだ。教頭先生に見つかったら、大騒ぎするだろうしね」 苦笑した大鳥に、土方も顔をしかめて溜息をつく。そんな二人の反応に困ってしまって、千鶴は二人の顔を交互に眺めた。 「あの……」 「ああ、ごめんごめん。君のことを知っているのは、僕とこの学校の理事長だけだよ。けど、保健室に行けば山南さんもいるし、クラスも藤堂くんと同じクラスになるから、困ったことがあったらいつでも頼ってくれて構わないからね」 「はい、ありがとうございます」 大鳥の爽やかな笑顔に千鶴もつられて微妙な笑顔を浮かべる。不安がないといったらかなりの嘘になるが、こんな人が校長をやっている学校なら、少しは安心できるかもしれないと根拠のない憶測でなんとか心収める。今日はあくまで転入手続きのため。その後形式的な試験を受けさせられた千鶴は、合格ラインギリギリの点数を出し、教科書やら学校で私用する備品などの調達に走った。そんな形で千鶴の初登校が一週間後に決まって、その日千鶴は土方に連れられて帰宅した。 学校に行く前に、渡された教科書を見て少しでも勉強しようと思っていた千鶴はあまりにちんぷんかんぷんな文字の羅列に頭を抱えた。千鶴は知らなかったが、どうやら名門男子校で世間に通じている学校なだけあって、千鶴が通っていた学校よりも授業の進み具合が早い。それに加えて千鶴はここしばらく学業とは無縁の生活を送っていたので、数学や物理などの公式はさっぱり忘れている。なんとかついていけるのは国語や英語などである。 千鶴は夕食も就寝準備も終えて机に向かっていたものの、あまりの進まな具合に溜息をつく。これはそろそろ降参して誰かに聞くべきだろうか。 とりあえず、部屋を出て千鶴は廊下に出てみる。手にしているのは数学の教科書。だいぶ付箋が貼られている教科書は、解らないページだらけでかなり恥ずかしいが致し方ない。もう既に皆寝てしまっただろうか、と不安に思いながら居間に行くと、案の定電気は消えており誰もいない。しょんぼりしながら部屋に戻ろうとして、ふと思い立つ。誰かの部屋に行って聞いたらどうだろう。しかし、もうすぐ23時を回ろうとしてるこの時間に誰かの部屋を訪ねるのも迷惑だろうか。 千鶴は少し誰を頼るか考えてみた。 土方は…部屋に行った瞬間追い返されそうな気がするし、何より一番聞きにくい。それと同様に山南を頼ってもやんわりと追い返されそうな気もする。日のあるうちにまた、といわれる気がするのだ。かといって、今日は確か夜勤の新八には聞けないし、原田も明日は朝から仕事だといっていた。もう寝てしまっているかもしれない。となれば、学生組に聞くのが一番だろうか。だが、沖田に聞きに行くのは何故だかものすごく躊躇われた。以前に一度夜に洗濯物を持って部屋を訪ねたときに「女の子がこんな時間に男の部屋訪ねちゃ駄目だよ、いたずらされちゃうからね」と、とてもいい笑顔で言われたのを思い出す。斎藤の明日の予定はわからないが、大学は高校と違って授業時間が長い分、負担にさせてしまっては申し訳ない。 やはりここは平助に頼むべきかと千鶴は迷うことなく平助の部屋に行った。ノックをして中から返事が返ってくるのを待つ。 「こんばんは、平助くん。まだ起きてる?」 「ん、千鶴か? どうした?」 平助はすぐにも返事を返してくれて、部屋のドアを開けてくれる。平助も就寝準備が終わっていたのか、寝巻き代わりのスウェットに着替えている。 「あのね、平助くんに教えてもらいたいことがあるの」 千鶴が数学の教科書を取り出して平助に見せると、途端に平助の表情が歪む。 「もしかして、数学を教えてくれってこと」 「うん、前の学校よりもだいぶ進んでて、よくわからない問題ばかりなんだ。良ければ教えて欲しいと思ったんだけど」 千鶴の言葉尻はだんだんしぼむ。当然だ、平助の表情は明らかに千鶴の訪問…というか、数学を歓迎していない。 「あの、ごめんなさいこんな時間にきて。駄目ならいいんだ、また明日他の人に当たってみるから」 「うーん、俺さあ数学得意じゃないんだ。絶対役に立てないと思うんだよな。むしろお前より頭悪い自信がある」 「そんなことないと思うんだけど……」 悲しきかな、それは自信に持つようなことではない。 「そんなことあるんだって。というわけで、代わりの人紹介するよ。ついてきな」 千鶴の言葉を最後まで聞かずに、平助は先陣切って歩き出した。数歩歩いたところで止まったのは、斎藤の部屋だった。 「斎藤さんに?」 「そそ、おーい、一くーん。起きてるー?」 千鶴に同意をしながら平助が声をかけると、中からかたりという物音がした。そして、すぐにドアが開かれる。やはりこちらも就寝準備を終えた斎藤の姿があった。 「なんだ」 「あ、寝るとこだった? 悪いなー、ちょっと一君にお願いがあってさ」 「お願い?」 斎藤はちらっと千鶴を見る。視線を受けて平助に頼むよりも緊張した千鶴は背筋を伸ばして数学の教科書を差し出した。 「私が通っていた学校よりも、だいぶ進んでいてわからないところが多いんです。入ってから少しでもついていけるように、勉強しておこうと思ったんですけど、一人じゃ限界で」 千鶴から教科書を受け取ってぱらぱらとめくった斎藤は、しばらくジッと見ていたが、頷いた。 「わかった、入れ」 「あ、ありがとうございます!」 「んじゃ、一君あとよろしくー。俺は寝るから」 「平助、お前もだ」 「はっ!?」 「この間の小テストの出来、散々だったらしいな。師範代が嘆いていた。良い機会だからまとめてみてやる」 「俺はいいよ、勘弁してよ! 絶対無理! 眠いし!」 平助の必死の抵抗もむなしく、平助の首根っこを掴んだ斎藤は引きずるように平助を部屋に引っ張り込んで、千鶴も苦笑しながらその後に続いた。 斎藤の部屋の中はだいぶ綺麗且つシンプルにまとめられていたが、大きな本棚が一つあった。中には千鶴にとってだいぶ難しそうな書籍のタイトルが見える。「スポーツ学術概論」やら、「相対性理論の見識」などはタイトルからして意味が解らない。かといえ、よくよく見ると千鶴も名前は知っているようなドストエフスキーや夏目漱石なども並べられている。斎藤は読書が好きなのか、と千鶴が脳内でメモを取っていると、机とは別に斎藤が正方形のテーブル出してくれた。千鶴は、座布団を貸してもらいその前に座る。 「一君の部屋は来るだけで眠いんだよ、なんだよこの本の山」 テーブルの前に座りながらも既に意気消沈している平助に千鶴はクスッと笑った。 「紙と筆記用具が必要ならこれを使え、平助寝るなよ」 「寝てねーよ! だいぶ眠いけど! ぶっちゃけ今教科書開かれたら意識飛びそうだけど!」 斎藤から手渡されたルーズリーフを手にして、こうして数学の勉強会が開始された。 → 20090216 七夜月 |