編入生 2



「千鶴ー、行くぞー!」
「あ、はい! 今行きます!」
 慌てて鏡の前の自分を見て、どこも変じゃないか、ちゃんと男の子かをチェックする。それから鞄を引っつかんで、部屋から飛び出して玄関へと向かう。こんなに自分が慌しい朝は久しぶりだった。
「すみません、遅くなりました」
「女の子が支度遅いって本当なんだね」
 既に玄関先で靴を履いて待っていた平助と沖田の二人に頭を下げてから、千鶴も靴を履いて足で軽く地面を蹴る。
「いちいち突っかかるなよ総司君。別にまだ時間的には大丈夫だろ」
「まあね、誰かさんを連れて行くって言うから、いつもより早めに出るんだし」
「す、すみません」
 恐縮しきって千鶴が首をすくめると、沖田は溜息をついた。沖田の寝起きは悪いとは言わないがいいとも言わない。日毎で変わるのだが、今日は機嫌が悪い日らしい。
「まあいいや、じゃあ行くよ」
「はい!」
 鞄を肩に担いでいる平助と沖田に促されて、千鶴は初登校するために玄関のドアを開けた。初登校にふさわしく、今日の天気は雲ひとつない快晴だ。
 今日から千鶴は、平助と沖田と一緒に高校生活を送ることになる。男子として男子校に編入するのだ。ただ転校するわけではない、とても緊張しているのが顔に出ているのか、今朝からはどうも笑顔が上手く作れない。珍しく朝食は皆が集っていたのだが、一様にそれぞれ千鶴を見ては一言二言かかけていくのである。
「あのよ、そんな緊張しなくてもいいと思うぞ? まあ、俺らも卒業したけど、んな悪いトコじゃねぇし」
「そうそう、俺も馬鹿で成績はいつも赤点ギリギリだったけどな、なんとかこうして職についてるし。まあ、指導に関しては問題ないと思うぜ」
 と、永倉と原田から言われれば。
「あまり緊張すると、かえって失敗したり不安が増幅したりしますから、少し落ち着いてリラックスした方がいいですよ」
「山南さんの言うとおりだ。一度は腹括ったんだろうが、いつまでも考え込んでんじゃねえよ」
 と、山南と土方に言われ。
「うむ、なかなか制服が様になっているな。十分男子に見えるぞ。だからもっと自信を持ちたまえ」
「師範の言葉はもっともだ。それに総司や平助もいる、不安なら頼ればいい」
 と近藤と斎藤から励まされる始末で、千鶴は少し落ち込んだ。そんなに駄目そうに見えているのかと、気分を一新して表情を引き締めた。
 二人はいつも徒歩で通っているだけあって、学校はわりと近い場所にある。ゆっくりと千鶴のペースで歩くと二十分くらいだろうか。今は平助と沖田に合わせているので通常よりも断然早い。
「うちのクラスの奴ら、別に悪い奴らじゃねーし、安心しろよ」
「土方さんと同じこというの嫌だけど、本当に腹括っちゃいなよ」
 歩きがてらそういわれて、千鶴も曖昧に返事をする。というか、まだ話題を引っ張られるほど酷く緊張した顔をしてるのだろうか。
「腹は括ってます、大丈夫です。なんとかやり遂げて見せます」
「今はまだ大変かもしれないけど、そのうち慣れるから大丈夫だって」
 本当に平助の言う通りかもしれないし、千鶴も一歩一歩進むごとにもう逃げられないことは解っていた。覚悟もしていた。それに、この日のために日夜問わず斎藤に勉強を教えてもらったのだ。ここで逃げたりしたらせっかくの成果が発揮されないではないか。
 斎藤のおかげで勉強が楽しいと思ったのも事実で、勉強面についての不安は今はさほど感じていない。
「とにかく、オレがついてんだし平気だって!」
 平助は自分の胸をどんと叩いている。大船に乗ったつもりでいろとそういう意味だろうか。千鶴は頷いた。平助だけが今は頼りなのだ。本当に同じクラスでよかったと思う。
 そのとき、ふと沖田が平助に尋ねた。
「平助、一限ってなんだっけ?」
「ん? オレらは体育だけど?」
「ふーん……まあ、頑張りなよ」
 楽しそうに笑いながら沖田が珍しく労いの言葉と共に肩を叩いてきたので、千鶴は驚いた。だが、まあ体育ならばクラスに溶け込んだり仲良くなれるきっかけなんかもあるかもしれないと、楽観的に考えていただけに、沖田の言葉の真意は図りかねたのである。

 楽観的に考えるのも問題だ、と千鶴は身を持って思い知った。
「あと5周だ、頑張れ雪村くん!」
 体育教師の激励に応える事も出来ずに、千鶴はただひたすらに唇を噛み締めながら足を動かし続けた。ここ最近、家事としてくらいしか運動していなかったために、足はもう悲鳴を上げている。だが、既に7kmは走っている。頑張った方だと自分でも思う。本気で思う。
 今日の体育は10kmマラソンだった。一限から10kmといわれ、沖田のあの笑みの意味を理解した。
 今はもう、千鶴を含めて半分くらいしか走っている人間はいない。さっさと完走した人物たちはもう既に木陰で休んでいるのだ。
「なあ、千鶴大丈夫か?」
「大……丈、夫……だか、ら……先、行って……」
「いや、全然大丈夫じゃないじゃん。無理すんな、棄権したくなったら言えよ」
 千鶴を心配して併走してくれている平助に息も絶え絶え答え、千鶴は彼に苦笑いを浮かべさせた。千鶴は水泳以外は体育にも参加することになっている。が、女性と男性では基礎体力が全然違う。いきなり男と同じように走らされても身体がついていけるはずがない。
 体育教師である島田も随分心配そうに千鶴に視線を向けている。他の生徒もいっぱいいっぱいなのか、千鶴に視線を向けているのは、完走した人間くらいだ。
「おーい、雪村頑張れよー!」
「転校初日でキツイだろーけど、頑張って完走しろよ!」
 ある意味では千鶴の楽観的思考に含まれた仲良くなるきっかけというのは与えられたのかもしれない。後ろの方を走っている千鶴に声をかける完走者は少しずつ増えている。
 激励が飛ぶ中、半分以上耳に入ってきても答えることが出来ない千鶴は、意識を朦朧とさせながらも必死に足だけは動かし続けた。
 以前の学校にもあったが、500mトラックがこんなに長いとは思わなかった。まあ、今の状態じゃ何も考えられないのだが。無心になり、足だけ動かし続けた結果、チャイムと同時に千鶴はゴールした。そしてそのまま、校庭に倒れこむ。
「おい千鶴、大丈夫か! だから辛いなら棄権しろって……!」
 平助が耳元で騒いでいたが、もう千鶴には遠い場所のようにしか聞こえなかった。とりあえず保健室運ぶぞという言葉を最後にぷっつりと記憶が途切れて、目を覚ました千鶴が見たのは平助の顔ではなく呆れ返っている山南だった。
「転校初日で保健室登校ですか」
 言われてがばっと布団を跳ね除けるように起き上がり、そして辺りを見回した。白いカーテンに仕切られている一画、山南がいるということはここは保健室なのだろう。
「あの、授業は? というか、私はここで何を……」
「よくもまあぐうぐうと寝こけたものですね。とっくに終業時刻は過ぎてますよ。今は下校時間です」
「下校時間!?」
 カーテンを取り払ってくれた山南の言葉通り、外は既に夕暮れに包まれている。ということは、一限を受けたのを最後に千鶴はずっと寝ていたというのか。有り得ない、と顔を真っ青にして、千鶴は頭を抱えた。
「連日の寝不足に加えて、昨日はろくに眠っていなかったんでしょう。意識を失ったことで緊張の糸が強制的に排除されて、だいぶ深い眠りになったみたいですね」
 確かに頭はスッキリしている、足はものすごく痛いが、これは筋肉痛だろう。
「とにかく今教室に平助がいるはずです。君も目覚めたのなら帰りなさい」
 そして手渡されたのは、サプリメントだった。
「運動直後からだいぶ時間が経っているので効くかどうかは解りませんが、アミノ酸とクエン酸のサプリメントです。翌日動けないようじゃ困るでしょうし、飲んでください。あと、家に帰ったらお風呂でよく足をマッサージすること。動かせるようなら、ストレッチをするのも有効です」
「ありがとうございます!」
 山南にお礼を述べて、千鶴は頭を下げた。サプリメントは錠剤だが、飲みやすそうだ。教室にはお弁当と一緒に買った飲み物も置いてある。そういえば昼食時すらも寝ていたのだ。急激に空腹に見舞われて、鳴りそうなお腹を押さえながら、千鶴は保健室を辞した。山南は呆れてはいたものの、こうして千鶴に対してなんだかんだで面倒を見てくれているので、千鶴は嬉しかった。
 足は痛いものの、眠ったおかげで足取り自体は軽やかな千鶴が廊下を歩いていると、前から千鶴を注視しているスーツを着た男性教諭らしき人が歩いてきた。自分が知らない教職員かと千鶴がぺこりと会釈をして脇を通り過ぎようとすると、突然腕を掴まれ千鶴を引き止める。
 前にもこんな展開があったような、と嫌な予感を覚えながら千鶴が自分の手を掴んでいる人間を見上げると、その人物は不敵に笑った。
「雪村千鶴というのは貴様だな」
「……そうですが」
 男の目はなんだか怖い、街角に居る不良とは圧倒的な力の差を感じさせる威圧感が漂っている。似たような雰囲気を持つ人を、千鶴は一人しか知らない。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「ほお、俺に名を尋ねるか。お前は知っていたはずだがな」
「知っていた?」
 千鶴は男に言われて男の風貌をよくよく観察する。だが、見知った人ではない。名乗りあうということは知り合いに該当する。だが、千鶴の知り合いにはこの男の風貌と一致する相手は居ない。
「なるほど、記憶がないということか」
 男は思案するようにしみじみとそう呟く。千鶴がもう一度何かを言いかけたときに、その声を遮るように別の声が廊下に響いた。
「ねえ、何してるの?」
 声の主は沖田だった。千鶴ではなく、視線は男の方に向けられている。
「理事長、その子離してくれませんか? 僕たちこれから帰るんです」
「三下が俺に命令するのか」
「お願いしてるだけなんですけど」
 沖田の言葉は丁寧だが、油断なく視線は男に注がれている。男はふっと鼻で笑うと、千鶴から手を離した。
「おいで」
 沖田から呼ばれて、千鶴は逆らうことなく彼の元へと行く。沖田は千鶴を背で庇うようにして千鶴の前に出た。
「いい子だね、あとでご褒美たくさんあげるよ」
 笑いながら小さな声で付け加えられて、千鶴はなんだか安堵してしまった。沖田が今こうして傍にいるなら、自分はこの人に連れて行かれることはない。千鶴は沖田が理事長と呼んだ人物をもう一度見る。だが、どうしたって記憶にはない人物だ。
「誰なんですか、貴方は」
 もう一度千鶴が問いかけると、理事長は馬鹿にするように鼻で笑った。
「己の過去を知らずに今までのうのうと生きてきた人間に、名乗る名などない……といいたいところだが、お前が俺を思い出さないのも気に食わん。俺は風間千影だ。お前の婚約者のな」
「こん……やくしゃ?」
 寝耳に水の風間の言葉に、千鶴は素っ頓狂な声を上げた。婚約者、ってなんだっけ?と脳内で辞書を開いて、大根役者の親戚かと一瞬本気で思いかけたそのときに、沖田が笑うように会話に入ってきた。
「婚約者とはまた、面白くない冗談ですね。理事長は男と結婚するつもりですか」
「お前こそ面白くもないことを言う。それのことは知っているし、俺が婚約者であるのはそれが生まれたときから決まっていた」
 は? と、千鶴が目を白黒させていると、風間がにやりと笑った。
「お前と俺は旧知の仲だ。少なくとも、そこにいる奴らと住み始めるより何年も前に俺とお前は会っている」
 本当に千鶴は風間のことを知らない。記憶にないのだ。戸惑って沖田を見上げると、沖田の視線が千鶴に向けられる。だが、千鶴の表情から何かを察したのか、風間に対して視線を鋭くさせる。
「そういう口説き文句ってあんまり流行らないんじゃないかな。嫌がる子を手篭めにするのが理事長の趣味ですか、随分低俗ですね」
「なんだと?」
 沖田が風間を怒らせるように言ってるのは千鶴も気づいた。案の定、風間の目も剣呑な光を帯びていく。
「だってそうじゃないですか、この子は覚えてないって言ってるんだし、あんまりしつこくすると逆効果じゃないですか?」
「貴様……いい度胸だな。二年も留年して口だけは達者になったか」
「すみません、僕病弱なんですよね」
「ほざくな、下賤が」
「その辺にしろ、沖田」
 二人の止まらない会話を仲裁するように、またも第三者の声が響き渡る。そこには険しい顔をした土方の姿があった。この殺伐とした空気に慄いていた千鶴はホッとして、土方の登場を快く迎え入れた。
「沖田、そいつの鞄を持って藤堂が教室で待ってんだろ。早く連れてけ」
 一瞬だけ、土方と沖田の視線が絡まる。
「……わかりました」
 学校では下の名前ではなく苗字で呼んでいる土方を、そしてそんな土方の言葉に素直に頷く沖田を初めて見て、千鶴は戸惑った。
「いくよ」
「あの、でも……!」
「土方さんがなんとかしてくれるってさ。ほら、歩いて」
 歩いて、と言いながら千鶴を引きずって歩く沖田。千鶴の戸惑いはいまだ消えず、土方に視線を向ける。
「土方さん…!」
「心配すんな、ちっとばかし話をするだけだ。先帰って飯でも作って待ってろ」
「……は、はい!」
 土方は唇の端を持ち上げてニヒルに笑う。土方ならきっと大丈夫、今まで一緒に暮らしてきた全幅の信頼が千鶴の胸に広がった。
「今日は、土方さんの好きなもの作りますね。それで、土方さんの帰りをお待ちしてますから」
「そうか、そりゃ楽しみだな」
 千鶴は頑張って笑顔を作る、そんな千鶴に苦笑した土方は千鶴の頭を軽く叩くと、風間と再び向き合った。沖田は土方から視線を受けて一度頷き、千鶴を腕を再び引き出した。
 千鶴も逆らうことはせずに、沖田と共に自分の教室へと歩き出す。


 





   20090225  七夜月

Other TOP