残影



「こりゃまた……珍しい光景だな。まさに鬼の霍乱ってやつじゃねえの?」
 理事長室の一画、対客用のソファでジャケットだけ脱いで無造作に眠っている人間を、一人の男が覗き込んだ。
「……疲れているんだろう、そのまま寝かせておけ」
「はっ、文句言われるの目に見えて起こすわけねえだろ。ホント、こんなのとよく付き合えるな天霧」
 天霧と呼びかけられたスーツ姿の男は、ふっと笑った。
「お前とは違うからな、不知火」
「へいへい、よく出来た部下だよ、お前は」
 肩を竦めて笑い返すのは、不知火と呼ばれた男だった。
「性格と仕事の能率は比例しない。経営としての仕事も若輩なりにかなりの好成績をあげている。それは認めざるを得ないだろう」
「有能なのは仕事だけかよ。ちょっとは人間関係も円滑にしねえと、お姫さんに嫌われるんじゃねえの?」
「それに関してはだいぶ手遅れな気がしなくもないがな」
「……同感だな」
 部下二人に好き勝手言われている張本人の風間はそれでも、目を開けることはしなかった。
 深い深い、記憶の淵に刻まれた過去を、夢としてみていた。それは誰もが入れない風間の夢、そして風間の過去。深い眠りでしか触れることの許されないその夢の中は、風間にとって大きな意味を持つものであった。


 よく連れられていく邸で、子供だった頃の風間は特に中庭の大きな木がお気に入りだった。そこは大きな木陰が出来るから夏場でも暑くはないし、風も吹いて気持ちがいいのだ。だから、今日もこの木陰にやってきたのだが、気分としては最悪だった。
 この邸は広い。父に連れられて何度かやってきたが、その意図は風間は不明だった。だが、今日になってようやくその意味を知ったのである。
 曰く、将来の風間の婚約者の住んでいる家、だそうだ。今までそれらしい人物を見たこともなかったが、先ほど紹介された。紹介されたときはまさかそんな馬鹿なことがあるはずないとさえ思っていたのだが、両親は本気だったらしい。
 そう、風間が紹介された相手は、4歳の小娘だった。人見知りするタイプなのか、相手方の親の袖から出てくることすらしない、本当に小さな女の子。風間をまともに見ることすらしなかった。風間はとっくに十歳を超えているのだから年齢差だってかなりある。それなのに、こんな小さな娘と結婚しろと言われて喜べる輩が居るだろうか、いや、いるはずがない。
 風間は婚約者などという存在自体がうざったかった。出来ることなら関わりたくはない。そんなものいらないとすら思うが、将来のことを考えたらそれはいえないことだった。恋愛結婚することは考えてないので、必然的に将来自分の家に利益をもたらす、また何かしら反映するような相手を選ばなければならない。それ自体は風間も反対する理由がないが、相手が4歳児ということが問題なのである。風間とて、英才教育は受けてきた。風間家の一人息子として受けてきた帝王学は十分身体に染み付いている。相手方の両親の前ではさすがに失礼な振る舞いはせずに済んだが、次に会ったとき嫌な顔一つしない自信は風間にはなかった。と、そんな自信をすぐさま砕くかのように、その機会は巡ってきていたのである。
「おい、お前」
 読んでいた本から顔を上げて、苛立った声で風間は少し離れた所に座って所在なさげにしている4歳児に声をかけた。
「することないなら部屋に戻るなりなんなりしろ」
「で、でもおかあさまがいっしょにあそんでらっしゃいっておっしゃっていました」
 4歳児にしては言葉がしっかりしている。やはり家を継ぐものとしてそれなりの教育を施されているのはよくわかった。かといって、結婚する気にはなれないが。
「それに、おへやにもどってもかおるがいじわるをいうし」
「苛め返せ」
「そんなことをしてはだめです。かおるがかわいそうです」
 自分が苛められると泣きべそをかくくせに、相手を苛めたら可哀想という。「馬鹿かコイツは」と、4歳児相手に本気で風間は呆れた。
 そんなにべもない風間の言葉に、少女は泣きそうになりながら小さな声で反論する。子供はめんどくさいから嫌だと、風間は聞こえよがしに溜息をついた。その途端、少女の肩がびくりと揺れた。
「俺はお前と遊ぶ気はない。よって、お前も俺と遊ぶ義理はない。母親の命令だか知らないが、どこにでも好きなところに行け」
 傍から聞けば随分と酷なことを言っている。だが、しかし、少女は動かなかった。
「どうした、早く行け」
「すきなところにいけとおっしゃいました。だから、ここにいます」
 本当にか細い声で少女はそう言った。風間は好きな場所に行けと言った手前引っ込みがつかなくなり、勝手にしろと再び視線を読んでいた本に向けた。

 少女の名前は雪村千鶴という。雪村家の長女にして薫の双子の妹だ。一緒に紹介された兄の雪村薫のほうは随分と睨みつけるように風間を見つめていた。まるで正反対の兄妹だ。そして風間からすると非常に謎な人物だった。
「……またお前か」
 嫌々ながらにこの邸に連れてこられるたびに、千鶴は両親の後ろや柱の陰に隠れながらもじっと風間を見ているのである。そして風間が視線を向けるたびに慌てて柱に隠れる。その繰り返しだ。
 ストーカーか、お前は。風間は嘆息した。
「いい加減にしろ、出て来い」
 そしてうんざりした風間に促されてようやく姿をあらわすのである。
「用がないならあっちへ行け」
 と、風間が言ってももじもじとした後に後ろ手に隠していたものを取り出し、それを風間に見せる。
「いっしょにあそびませんか」
「また母親に言われたのか」
「…………はい」
 少女が取り出したのはトランプだった。それを見て、風間はすぐにも鼻で笑う。
「お前は他人から言われたらなんでも言うことを聞くのか? まるで犬だな」
「……わんちゃんはかわいいです」
「俺は今皮肉を言ったんだが」
「おにくがたべたいんですか?」
「…………もういい、あっちへ行け」
 会話が成立していない。なんだかどっと疲れて風間は本当に犬を振り払うようにしっしっと手で追い払う。だが千鶴は動かなかった。
「おかあさまはちかげくんはきっとあそんでくれるからだいじょうぶっていっていました」
「俺はお前に付き合うほど暇じゃない」
「ちかげくん、あそんでください」
「お前のその耳は飾りか? そして俺を千景くんと呼ぶな」
「ちづるはこのあいだ、かおるといっしょにばばぬきをしました」
 千鶴は聞いていないのか、草の上に座り込むと途端にトランプをケースから取り出した。完全に風間の話は聞いていないようだった。
「それは良かったな。じゃあ俺は帰る」
 後ろを向いて立ち去ろうとすれば、服の袖を引っ張られた。その行動がまた風間の怒りを煽るのである。
「おい、お前いい加減に……」
「ちかげくん、かえってしまうのですか?」
 今にも泣きそうなほどに目に涙を浮かべている千鶴に圧倒された風間は、振り返り様うっと後ずさった。子供は嫌いだが、泣かれるのはもっと嫌いだった。うるさいし、うざったいし、面倒くさいことこの上ないのだ。
「……ばば抜き一回だけだからな」
 そう答えたら途端に千鶴の涙が引っ込んで、ぱっと笑顔になる。これだから子供は嫌いだと風間は心で毒づいた。泣きそうになっていたくせに、すぐに笑う。トランプの大きさが手にあまり千鶴がバラバラにしてしまったのを拾い集めながら、風間は溜息をついた。子供に付き合う義理なんてそれこそないはずなのだが、両親の顔を立てるという行為は風間も承知している。大人のしがらみは本当に面倒くさい。そして千鶴相手にばば抜きをしてみたものの、千鶴は全部表情に出るので、ばば抜きの意味を成さなかった。当然子供相手だろうと容赦しなかった風間が勝ってばば抜きは終了する。
「約束どおり一回だけだ。俺は帰る」
 再び立ち上がった風間が草を払い落としていると、負けて泣きそうになっていた千鶴が再び風間の服の袖を掴んだ。
「なんなんだ、俺は約束を守ったぞ」
「つぎはいついらっしゃいますか?」
「は?」
「また、ちづるはちかげくんにあそんでほしいです」
 負けたというのに千鶴がにこっと笑うので、何故か風間の方が負けた気がして悔しくなった。八つ当たり気味に「さあな」とだけ告げる。子供相手に本気を出した自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。だが、見送りに出てきてくれた千鶴が小さく手を振っていたので、親の手前それを無視するのもどうかと思って振り返したら、千鶴がことのほか喜んで手を大きく振り始めた。ぎょっとして、さすがにそれに応えることはしなかったものの、千鶴が見えなくなるまで視線だけは車内から追い続けていた。



 





   20090617  七夜月

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