雨空



 赤くて、紅くて、朱くて、様々な「あか」が混ざったこの世界で、千鶴は泣いていた。何かが悲しくて、大事なものをそこに全部置いてきてしまった気がして、千鶴は泣いた。
 泣きながらも、千鶴はこれが夢であることを知っていた。だってこんなにも赤い景色は、見たことがない。現実に存在するはずがない。存在してはいけない。
 もしも、この色が存在する世界があるなら、それはきっと……。

 ぱちっと目を見開いて、ようやく千鶴は起き上がった。時計を見たら、まだ6時前だが、再び眠る気がしなくてそのまま起き上がった。何かの夢を見ていた気がする。赤、という言葉がふっと浮かんだが、それが何を意味するのかはもう覚えていない。
 制服に着替えるためにワイシャツの袖に腕を通す。最初のうちは自分で着るのにも慣れなかったのに、今ではこの服に身を通すと「学校に行ける」という気持ちで満たされる。男子校ではあるけれども、千鶴は「学校」が好きだった。たくさんの人がいて、たくさんの人と触れ合える。家の中だと狭かった世界が、近藤の言うとおり確かに広がったのは事実だ。
 パリッとしたシャツの感触を楽しみながら、千鶴はエプロンをかけた。一日の始まりだ。
 朝食の準備をして、ある程度の用意が出来たので新聞を取りにいくためポストへと向かう。2種の朝刊をポストから出すと、はらりと何かが落ちた。昨日の取り忘れた手紙なのか、封筒名には個人的な名前が書かれていた。珍しいこともあるものだ、この道場へは大抵近藤の名前かもしくは道場名義で郵便物が届くのだが、今日に限っては「藤堂平助 様」。何気なく封筒の裏を見てみたら、そこには女性の名前が書いてあった。「藤堂千代」同じ藤堂姓ということは親戚か何かかもしれない。しかし、いやに達筆な字面だ。恐らく使われているのは、筆。平助にこんな知り合いが居るのはなんだか結びつかなかったが、千鶴が開封して中身を読むわけにはいかないので、急いで家に戻ると居間へと走った。
「平助君、手紙来てるよ。あ、土方さんこれ、新聞です」
「平助ならまだ起きてねえよ。部屋に持ってってやれ」
「そうですか、わかりました」
 土方に走ったことを見咎められるかと一瞬ビクビクしたが、土方は千鶴から渡された新聞を開きながら茶をすすっている。この調子なら大丈夫かな、と千鶴が背を向けた瞬間。
「雪村、廊下は走んなよ」
「……すみません、気をつけます」
 やっぱりバレていた。身を縮こませながら千鶴は居間を出た。それから今度は走らず普通に歩きながら、平助の部屋へと急ぐ。
「おはよう、平助君。もう起きてる?」
「んー……起きてる……」
 半分くらいは寝ているような返事だった。
「あのね、今ポストを覗いたら平助君宛てに手紙来てたよ」
「……そこ、置いといて」
「ドアの前に?」
「そー」
 このまま寝続けていたらまた寝坊してしまうんじゃないだろうか、と千鶴は声をかけ続けた。
「平助君、もう起きた方がいいよ。そろそろ朝食だし、朝はしっかり食べないと」
「んー…食べる……」
「それにしても、この手紙の方、達筆な字の方だね。同じ藤堂ってことは平助君のお母さんとか?」
 ガタン、と部屋の中で大きな音がした。それと同時に平助がすごい形相で出てきて、千鶴が見ていた手紙をひったくるように取り上げた。そして千鶴には無言で封筒の前後を確認している。
「平助君?」
 そして、平助は黙ったまま部屋のドアを閉めた。それからいくら千鶴が呼びかけても、平助からの返事はなかった。頭を捻りながら、何か悪いことでも言ってしまっただろうか、と考えてみるものの、これといった理由が思いつかない。
 考え込んでいても時間ばかりが過ぎていく、とにかく他の人の朝食の準備を済ませて、千鶴は登校時間を待った。平助がやってくるのを待つものの、ギリギリの時間になっても平助は部屋から出てこない。沖田と土方に促されて先に登校したが、後ろ髪惹かれる思いで千鶴は教室の席に座る。
 平助がいない教室というのは、ほんの少し静かだった。いつも馬鹿騒ぎしているというわけではないが、平助の周りはにぎやかなのだ。たぶん、人を惹きつけるような魅力が平助には備わっているんだと思う。平助がいないだけで教室が閑散としているように感じるなんて、彼の影響力は偉大なんだなと千鶴は思う。だが、それを思ったところで、平助が学校に来るわけでもない。少し寂しいなと感じながら、千鶴は教室の窓から空を見上げた。
 今日の天気は、午後から雨だと言っていたが、確かに山の向こうには黒い雲が見えていた。

 友達がいなかったわけじゃない、移動教室も一人じゃなかった、でも千鶴は物足りない気持ちで一日を過ごした。沖田が用がある、とかなんとかで今日は珍しく一人で帰る。斎藤に連絡をしてくれるといってくれたのだが、千鶴は丁重にお断りした。雨が降っているし待たせてしまったりするのも申し訳なかった。家への帰り道ならばもう覚えている。それに長時間歩くわけではないから、危険も特にないだろう。
 梅雨の時よりも雨脚が強い。ズボンの裾はただ歩いているだけなのにもうずぶ濡れだった。この雨での買い物は断念して、千鶴は自然と家へ早歩きになる。雨はもう、靴の中にまで染込んでいる。
 千鶴が歩いていくと、後方から一台のベンツがゆっくりとしたスピードでやってきた。千鶴は気にも留めなかったが、こんな住宅街でこんなスピードで走るのはおかしい、嫌な気分になって更に足早に歩調を変えると、そのベンツは千鶴の真横にぴったりと沿うようにして走行し始めた。窓が開いて、風間が顔を出したとき、千鶴はなんとなく嫌な予感が当たったことに顔をこわばらせた。
「そうあからさまに嫌そうな顔をするな」
「何か用ですか?」
「別に用はない。一人で歩いているのか」
「…………」
 はいそうです、というのは簡単だったが、一人だと知ったら何をされるかわかったものではない、かといって否定しようにも隣に誰も居ないので、嘘をつくわけにもいかない。千鶴は貝のように口を閉じた。
「図星だな、他のやつらはどうした」
「あなたには関係ないじゃないですか」
「いや? 面倒見るだのと大口を叩いたくせにこの様かと落胆しただけだ」
「皆さんだって忙しいんです、私ばかりに構っている暇はありません」
「ふん、やはり一人か」
 思わず突っかかって口を滑らしたが、風間の言うように一人であるといっているようなものだ。恐ろしく浅はかな失態だった。
「一人というなら、ちょうどいい。話がある」
「嫌です」
「聞く耳を持つ気はない、か」
「…………」
「勘違いするな、お前に選択権はない」
 それは既に会話ではない。相手の意向を無視した時点で会話コミュニケーションという手段を放棄したも同然ではないか。
「乗れ」
「嫌です。話があるならどうぞご自由に、ここで話してください」
「選択権はないと言ったはずだが?」
「それでもです」
「……強情な娘だな、では望み通りにお前一人だけ歩いていろ」
 言われ方が妙に頭にカチンと来たのは否めないが、それでも怒ってはダメだと千鶴は心を落ち着けた。
「お前は忘れている、本来のお前自身を。俺の元へ来い、お前の失った記憶を取り戻してやる」
「……何を馬鹿なことを言い出すかと思えば…私に失った記憶なんてないです」
「それはどうかな、お前の父親の名は?」
「雪村綱道です」
「では、母親は?」
 何をいきなり言い出すんだ、と千鶴は耳を疑った。だが、母の名前を言おうと口を開いて、その口は閉ざされる。母親の名前が出てこない、喉元まででかかっているというのに、何故か度忘れしたように思い出せない。
 黙りこんだ千鶴に、風間は笑みらしきものを浮かべる。
「どうした、母親の名は言えぬか」
「…………」
「では、お前の兄の名は?」
「私に兄なんていません、ずっと父と二人暮らしで」
 ――ちづる、あしたになったら、いっしょにケーキを食べよう。やくそく。
 突然頭の中に声が聞こえてきた。何、これ。ずきっと頭が痛む。ガンガン響くような、何か脳を直接ゆすぶられるような、そんな感覚に眩暈が起きる。歩みは自然と立ち止まり、千鶴は痛みで頭を押さえ、差していた傘と鞄を取り落とした。
「傘を差さないと濡れるがいいのか?」
 よくはないが、今はそんなことに構っていられないほど、こめかみが痛い。いやだ、やめて。痛い、痛い痛い痛い痛い。
「あ、っうああああああ!」
「乗れ、千鶴。お前の痛みを和らげてやる。記憶を取り戻せばその痛みは消え、お前は自由だ」
 風間の問いかけは酷く魅惑的なものに聞こえた。この痛みから解放されるならと、開かれた扉に思わず手を伸ばしかけたとき、その腕を誰かが握った。
「邪魔をするつもりか?」
「約束を違えるつもりですか? 貴方は師範代と話をなさったはずですが」
「なるほど、犬付か……どうりで一人で歩いていると思ったが」
 千鶴は目が霞んで自分を止めた人物が誰かわからなかった。二人の会話がまだ続いていたが、頭が割れそうな痛みは一向に引かない。誰か、誰でもいいから。この痛みを止めて。
「千鶴、これだけは言っておこう。お前は必ず俺の元へ来る。それは近いうちに、必ず起こる未来だ」
「何……言って……」
「それまではせいぜい楽しむがいい、お前の好きな家族ごっこを」
 話はそれだけなのか、開いていたウィンドウが自然に閉まっていく。だが、半分ほど閉めたところで、風間は意味ありげに千鶴を見た。
「そういえば、もう一人擬似家族に執着している奴が居たが……奴もこれで決めるときが来たらしい」
「え?」
「藤堂平助、奴がどう出るか、見物だな」
「平助……平助君…!? 待って、どういう意味」
 千鶴の問いかけを無視してウィンドウを完全に遮断してから、ベンツは走り去っていった。千鶴は追いかけようかと思った。しかし、頭の痛みは引くどころか増している。
 ―母親は?
 ―お前の兄の名は?
 ―藤堂平助、奴がどう出るか、見物だな
 風間が残した言葉が頭に響き続ける。ぐるぐると頭の中を巡りながら、千鶴は意味を追求することを断念した。思考の停止と共に、落ちたのは暗転。
 駆け出そうとした足は崩れ落ち、濡れた道路へ千鶴は倒れこんだ。

 目を覚ましたときに、千鶴が居たのは千鶴の部屋だった。
「悪かったな、山崎。忙しいのによ」
「構いません、ちょうどこちらにお邪魔する予定でしたから」
「助かったぜ、お前以外には頼めないからな」
「お役に立てて光栄です、師範代」
 部屋の外から土方ともう一人の声が聞こえてくる。誰だろう、お客さんかなと千鶴が起き上がると、自分の頭に乗せられていたらしい手ぬぐいが落ちた。水で湿っているそれは、千鶴の布団脇に置かれていた桶を見て、事情を察する。誰かしらが、千鶴の面倒を見てくれていたのだろう。
「アイツは寝てるか?」
「はい、記憶の混乱に応じて酷い頭痛を伴うようでしたので、僭越ながら自分が手を施させていただきました。起こしますか?」
「そうか。ああ、起こさなくていい。そのまま寝かせとけ」
「承知しました」
 話の内容は詳しくは解らなかったけれど、少なくとも自分を看病してくれた人がいるようだ。千鶴は起き上がると、自分がまだ制服を着ていることに気づいた。着替えようか少し迷う。濡れていたのは乾いてしまっているので、早く制服の皺を伸ばした方がよさそうだ。先に着替えることにして、音を立てずにそっとクローゼットから衣類を取り出す。
「あと、例の調べ物についての件も、あとで報告してくれ。風間の動きが気になる」
「承知しました。報告書をまとめたデータの入ったCD-ROMがあります、先にお持ちしますか?」
「そうだな……質問は追ってする。悪いがしばらく見ててやってくれ」
「はい」
 上を着替え終え、急ぎながらズボンを履いていると、会話は終了したらしい、足音が一人分遠ざかっていく。千鶴は急ぎすぎてズボンの裾を自ら踏み、そのまましりもちをついた。しりもちと千鶴の部屋のドアが開くのは同時だった。なんとかギリギリで着替え終わっていて、内心冷や汗ものだった千鶴は入ってきた人をまじまじと見た。
「あの……どちら様でしょうか」
「山崎だ。山崎烝。会うのは初めてだな」
「は、はい。雪村千鶴といいます、あのわた…ぼ、僕の看病をしてくれたって今お話が聞こえていたんですけど、お世話になりました。ご迷惑おかけしました」
「気にするほどの大したことはしていない。君が無事でよかった」
「あ、ありがとうございます」
 斎藤とはまた違った種類の、口数が少なそうなタイプに千鶴には見えた。だが、土方のあの話方からして十分に信用に足る人物なんだろうと思う。
「あと、君の素性についてはこちらは把握している。隠す必要性はないので、普段どおりで構わない。無理に一人称を『僕』に変える必要はない、ということだ」
「ありがとうございます」
 気を遣うなと言外に言われているようで、少し気が楽になる。やはり学校では『僕』として通しているので、家でも知らない人がいると緊張して話さなければならないため、千鶴も口数が少なくなるのだが、山崎はそんな千鶴の思いも汲み取ってくれたらしい。
「目が覚めたのであれば自分はこれで失礼しよう。着ていた上着だけは脱がしたが、着替えさせてやれずすまなかった」
「い、いいえ! むしろお気遣いいただいて、ありがとうございます」
 着替えさせなかったのはたぶん、千鶴が女の子という配慮だろう。
「大事なことを聞き忘れていた。具合はどうだ、まだ頭痛がするか?」
「いいえ、今はなんともありません」
「そうか、ならいい。だが無理をすることもないだろう、今しばらく休んでいることを勧める」
「はい、少ししたら夕食の支度をしますね」
「今日は代わって貰った方がいいと思うが」
「いいえ、あの…身体動かしてると余計なことを考えなくて済むというか」
「なるほど、ではくれぐれも無理をしないように」
「はい、本当にありがとうございました」
 丁寧に山崎に頭を下げてから、千鶴は彼が出て行くのを見送った。それから時計で時刻を確認し、最後に風間が言っていた言葉を思い出した。風間は確か、千鶴に平助がどうのと言っていた。アレはどういう意味だったのだろうと、疑問が首をもたげる。
「平助君に会いに行こう」
 朝、なんだか調子が悪いようだったし、その点も心配だった。もし朝の件で千鶴が何かしら平助に失礼なことを言ってしまったのなら、謝りたい。
「善は急げ、だよね」
 そして千鶴は、朝と同じように平助の部屋をノックした。二度、三度、ノックの音は廊下に響くが中から声は聞こえない。というか、人の気配すら感じない、千鶴がドアノブを回すと、鍵が開いていた。簡単に部屋が開いて、少しだけ中をあけて平助がいるか窺う。
「平助くん、いる?」
 無音は無音でしかなく、千鶴の声に反応するものはなかった。平助は出かけてしまっているようだった。
 ならばまた出直そう、と千鶴はドアを閉める。だが、閉める直前、何かがドアに引っかかった。拾ってみると、それはくしゃくしゃに丸められた紙だった。ゴミはゴミ箱に捨てればいいのに、と千鶴がゴミ箱に入れようとしたとき、そこには見覚えのある達筆で名前が書かれていた。
『千代』
 直感的に、これが朝の手紙であるのはわかった。だったら、千鶴が勝手に捨てていいものではない、迷ってから、千鶴はそれを平助の机の上に置いた。捨てるものであれば、きっとあとで本人が捨てるだろう。
 平助の部屋を出て、そっとドアを閉めた。
「夕食の準備、しよう。今日は平助君の好きなハンバーグで、元気になればいいな」
 平助の様子がおかしいと、家の中までなんだか寂しい。千鶴まで落ち込みそうになって首を振った。平助が元気ないのであれば、自分が元気を出さなくてどうする。一緒になって落ち込んでたって、明るくなんてなれない。
 ハンバーグの材料は冷蔵庫に入っていただろうか、そんなことを考えて、千鶴は台所に行った。


 





   20090729  七夜月

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