閉眼 空気が重くなった。笑い声も聞こえない。近藤がいなくなった道場はみんながバラバラになったように誰かと顔を合わせることが少なくなった。 特に沖田と土方が一緒に居ることがまったくなくなった。元から一緒に居たわけではないが、顔を合わせないとしているかのように、二人はかみ合わなくなった。 たぶん、避けているのは沖田のほうなのだろう。だが、土方はそれについても何も言わない。 今日の朝食も、平助と斎藤の二人しかいなかった。 「皆さん遅いですね。起こしてきたほうがいいでしょうか?」 「放っておけ、食べたければそのうち来るだろう」 「そうそう、んなことよりお前も先に食っとけよ。たぶん、総司君は来ないからさ」 平助の何気ない一言に、千鶴はまた落ち込んだ。近藤の影響力は本当に大きく、彼が事故に合ってからまるで家の中の雰囲気がガラッと変わってしまった。 「あの、私お見舞いに行きたいです」 誰も触れなかった言葉を、千鶴は意を決して告げた。近藤が入院しているのは沖田がよく行く病院という話は聞いているが、病室なんかは一切知らない。 千鶴が行ったからといって、何も出来ないのは知っているが、何かしたかった。近藤が入院してから約一週間が経過している。 「お見舞いに行かせてください」 斎藤と平助は顔を見合わせると、互いに視線を落とした。 「……俺たちも師範がどの病室なのかは聞かされてない」 「お見舞いに行きたいって言ったんだけどな、土方さんがなんでか許してくれなくてさ。だから余計に総司君荒れてんだよな」 やっぱり止められているのだと知って、千鶴は立ち上がった。 「どうした千鶴」 「土方さんに直接交渉してきます」 「無駄だよ、ああなった師範代はテコでも動かない」 「それよりもまず食事だ。お前が倒れたりしたら、この家はぼろぼろになる」 二人から止められて「でも……」と食い下がろうとした千鶴は留まった。これ以上は二人を困らせるし、直談判はご飯を食べてからでも遅くはない。はい、と返事をしてから、自分の作った食事に口をつけた。温かいものばかりを取り揃えたはずなのに、何故か冷たく感じたそのご飯に、千鶴は溜息を押し殺した。 「駄目だ」 土方の部屋に入って第一声がそれだった。まだ何も言っていないのに、駄目だしを受け千鶴は面食らう。 「近藤さんにはまだ誰にも会わせねえ」 千鶴の用件は端から解っていたようで、パソコンから目を離さない土方は、千鶴に背を向けたままそう答えた。 「……どうしてですか?」 「どうしてもだ」 「私はお見舞いに行きたいです」 「駄目だと言ってる」 冷たいくらいの拒否の言葉に怯みそうになりながらも、それでも千鶴は踏みとどまった。 「お願いします、お見舞いに行かせてください」 「俺は駄目だと言ったんだ。同じことを何度も言わせるな」 苛立ったような声音をぶつけられて、千鶴は首をすくめてしまう。 「大体、お前が行ったところで何が出来る?」 「何も出来ません。でもお見舞いに行きたいです」 「自己満足のためか」 「そうです」 怯むな、怖がるな、後に引くな、自分で自分を励ましながら、千鶴は胸の前で手を握り締めた。土方の背中をずっと見つめ続けて、祈るような気持ちで願い続ける。 「お見舞いに行かせてください」 再度そう千鶴が告げると、土方がようやく振り返った。その目は当然ながら怒っている。当たり前だろう、駄目だといわれているのに何度も何度もお願いを繰り返しているのだ。だが、千鶴は引けなかった。土方の睨むような視線を負けじと見つめ返すと、土方がゆっくりと瞬きをした。 「……わかった」 「え?」 「十分後に出る。それまでに準備しておけ」 「は、はい!」 「ただし、誰にも言うなよ。お前だけ連れて行く」 「わかりました」 他の人が何故駄目なのか理由はわからなかったが、それでも千鶴の願いは聞き入れられたのだ。ありがとうございますと深くお礼を述べてから、千鶴は土方の部屋を辞した。 約束の十分後。玄関へとやってきた土方に連れられて、千鶴は近藤の居る病院へとやってきた。薬独特のにおいが漂う大学病院の中、黙って歩き続ける彼の後を追う。 土方の歩みは速い。置いていかれないようにと急いでいると、一際分厚い入り口の扉に土方がやってきた。 「消毒する」 そこは消毒室で菌を入れないようにと無菌服に身を包み、アルコール消毒をして、千鶴はまた長い通路を歩き続けた。 そしてたどり着いたのが、ICUの病室だった。 「…………うそ」 中には変わり果てた姿の近藤が、口の中にチューブを入れられて、眠っていた。恐らく、チューブは口だけでなく、身体の他の部位にも入れられているんだろう。予想以上の状態に千鶴はショックを受けた。だが、なんとか取り乱さないで居られるのは、元からの知識と医者の娘として冷静な目で見られる部分があるからだ。 「近藤さん……!」 ICUの透明なガラスに手を寄せて、震える唇を噛み締める。 「ずっと眠ったままだ」 土方さんが呻くようにそう呟いた。事故にあってから一週間近藤は目覚めることがなかった。 「こんな姿、道場の奴ら……ましてや、総司に見せらんねえだろ」 その言葉の意味を、千鶴は理解した。近藤さんを慕っている沖田は間違いなく取り乱す。他の人たちにも何かしらの衝撃を与えるに違いない。近藤が背負ってきた道場の看板。それは彼の強さに比例する。羨望の的となっていたそんな彼の、今のこの状態を見たら、彼を慕っていたものほどショックは大きいに違いない。 「だから、言わなかったんですね」 誤解をされても、不信感を植え付けても、それでも土方はこんな近藤さんの姿を見てショックを受けるだろう道場の人たちに、何も言わなかったのだろう。 「言えるかよ。こんな思いは俺だけで十分だ」 自嘲気味に呟いた土方。千鶴は土方を見た。土方の表情はとても辛そうで、彼が甘んじて憎まれ役を受けてまで、皆のことを考えていたのだと知る。 自分の辛さを押し殺して、土方は道場の皆を優先した。近藤が心配していたその理由を千鶴はようやくわかった。彼はいつでもこうして無理をするのだろう。体力的にも勿論だが、精神的にも辛くないと自分に言い聞かせて。 「土方さん、一人で抱え込んでたんですね」 「そんな大層なもんじゃねえよ」 くっと笑った土方だが、それは笑顔ではなかった。辛いなら、笑わなくていいのに、彼は気を張り続けなければならないのだ。今はそう、千鶴のために。弱さをひた隠しにして。 「俺は近藤さんの後をずっと歩いてきた。そしてやっと隣に並んで歩けるようになったと思ってたのに、全然違った」 穏やかな表情で近藤を見つめながらふとそう語りだした土方の言葉は紛れもない本音だろう。千鶴は彼の言葉を今は聞くべきと土方を見上げた。 「近藤さんは俺たちを大事にしてくれる、俺たちのためにいつも頑張ってくれてる。俺たちが鍛錬に打ち込めるように、いつだって考えてくれていた。なのに……」 不意に土方は近藤から背を向けて、反対側の壁を叩いた。 「なんでこんなになっちまったんだろうな……?」 拳が壁を容赦なく打ち付けた。その大きな音に千鶴は震えたが、それ以上に彼のやり場のない慟哭に胸が締め付けられた。 『あいつは総司と別の意味ですぐに無理をする』 千鶴の軋んだ胸に、近藤が言っていた言葉が甦った。 土方は確かに、無理をしていたのだ。沖田だけじゃない。彼の隣でずっと彼の強さやすごさを見続けてきた土方が、こんな状態になってしまった近藤を見て、何も思わないはずはないのだ。 哀しくて、泣きたくて、それでもそれが出来なくて、土方はずっと溜め込んでいた。 「前にも言ったよな。近藤さんがもう二度と、同じように剣を握れないかもしれないって」 「はい」 確かに千鶴はそういわれた。千鶴に背を向けているため見えてないのがわかっていたので、うなずくだけでは足りない。言葉にして肯定をする。 「俺はもっと、近藤さんを強くしてやりたかった。世界中で俺たちが強いってこと、証明してやりたかった。もっともっと上に、連れていってやりたかった」 生きてるだけで十分だと、そう思うだけでは足りないほど、近藤と剣は強い結びつきなのだ。土方よりも誰よりも、本人が一番苦しむのだろう。それが解っているから、土方はまた苦しむ。 「ちくしょう! 俺がもっとしっかりしてればこんなことにならなかった!」 もう一度、土方は壁を叩いた。耐え切れなくなって、千鶴はその背中にしがみついた。 「もう…もう、やめてください。そんなに強く叩いたら、怪我してしまいます」 広かった土方の背中は間近で見たら、こんなにも小さいものなのだと思い知った。土方の服を握り締めるように、千鶴は頭を押し付けた。 「近藤さんは生きてます。今もずっとこんなにもすぐ傍で、必死に生きてます」 何を言ったらいいのかわからない。けれども、千鶴は必死になって言葉を捜した。 「近藤さんは生きてるんです。土方さん、そうですよね?」 問いかけて、なんとか土方の心をもう一度こちらに向けたくて、千鶴は問いかける。 「近藤さん私に言いました、土方さんや沖田さんはすぐに無理をするから、見ていてやって欲しいって。きっと今も心配してます。必死に戦いながら、それでも土方さんたちのことを想っています。近藤さんはそういう人ですよね」 近藤はそういう優しい人間だ。だからこそ彼の元に人は集まってくる。それは近藤と千鶴が出会うずっと前から変わらないはずだ。 「だから、土方さんが自分を責めてはいけないんです。土方さんが自分を責めたら、近藤さんが悲しむから」 また俺のせいでトシに迷惑をかけてしまったな。そんな風に苦笑いしながら、近藤は自分を責めるだろう。 「大丈夫です、私医者の娘ですから、近藤さんは大丈夫だって自信持っていえます。剣が使えるかどうかはわかりませんけど、それでもリハビリを繰り返せば必ずまた剣を握れるようになります。私も頑張りますから」 無我夢中という言葉通り、千鶴の言葉は既にまとまりがなくなっている。 「……たく、泣きながら言うなよ。お前が泣くと、それこそ近藤さんが困るだろうが」 千鶴が顔を上げると、振り向いた土方が泣き笑いを浮かべて千鶴を見ていた。言われて千鶴は初めて自分が泣いていたことを知って、慌てて目元を拭う。 「ありがとな、お前の言う通りだ」 頭に手を添えられて、千鶴は胸の内でホッとした。いつもどおりの土方だ。 「変わらないな、お前は」 呟かれた言葉の意味が解らずに、千鶴が首を傾げると、土方は笑った。 「帰るぞ、近藤さんまた来るからな」 前半は千鶴に、後半は近藤に向けて土方は告げた。土方の言葉に逆らうことをせずに、千鶴も近藤に頭を下げた。 「近藤さん、また来ますから」 近藤にいつもどおりに微笑みかけて、もう一度その姿を心の中に留めた。近藤のこの姿も紛れもない近藤なのだから、絶対に目をそらしてはいけないのだ。 最後まで開かなかった瞳に、いつかもう一度自分が映る日が来るのを祈りながら、千鶴は近藤に背を向けた。 → 20091013 七夜月 |