歯車 千鶴は首が痛くなるほどの高いビルを見上げて、感嘆した。敵の懐に入り込むつもりできたのだから、気合は入れてきたものの。まさかこんなにも大きなビルだとは思わなかった。五十階……百階建てはあるのだろうか?詳しいことはさっぱり解らないが、とても大きい。 若干緊張して両手足同時に出しながらビルの自動ドアをくぐった。当然ながら中に居たのはスーツの人間ばかりだ。スーツを着ていないのは清掃業者くらいである。間違いなく私服で浮いているのは千鶴だけだった。既に尻込みしそうな自分を叱咤激励し、受付嬢のもとへと足を運ぶ。 「あの、風間千景さんとお会いしたいんですが」 「失礼ですが、お名前を教えていただけますでしょうか?」 「あ、すみません! 雪村千鶴と言います」 「雪村様ですね、確認いたしますので少々お待ちくださいませ」 受付嬢はすぐに電話を取ると内線呼び出しをかけたのか話し始めた。千鶴はなるべく失礼にならないようにと一歩下がってあたりを見回す。吹き抜けのロビーはまるでドラマの中のセットのようで余計に萎縮してしまう。 「お待たせいたしました。あちらのエレベーターで50階まであがっていただきますと、取締役の部屋がございますのでそちらでお待ちください」 「わかりました」 受付嬢へ頭を下げ、千鶴は言われたエレベーターへ向かう。エレベーターは全部で四つ。そのうちの一番左端が千鶴の使うエレベーターらしい。そのエレベーターはどうやら高層専用のエレベーターのようで、止まる階層が決まっているらしい。1階とあとは25階から上の階に止まるようだ。 ボタンを押して待機しているとスーツを着たサラリーマンやOLがちらほらとエレベーター前に集まってくる。当然視線は千鶴に注がれる。私服姿の少年がこんな時間にこんな場所で何の用事なのかと、疑問に思うのは当然のことだ。いたたまれない気持ちになりながら到着したエレベーターに乗り込んで、千鶴はなるべくうつむき加減になりながら50階に早くなるのを願った。 大事な話があると土方を呼び出したのは、近藤の見舞いに行ったその日の夜だった。部屋を訪れて、自分の今の気持ちをはっきりと告げた。 「この間、私の元に不知火という男がきました。土方さんはご存知ですか?」 「ああ、原田から話は聞いてる。俺は実際会ったことはねえが」 「その人、私にこんなものを手渡してきたんです」 そして千鶴が見せたのは、父の字で表紙が書かれた『変若水計画』の新薬レポートだった。 「なんだこれ」 土方は難しい顔をしながらも、ぱらぱらと表紙をめくって中を見る。読んでいる内に彼の顔色が徐々に変化して言ったのを納得の面持ちで千鶴も見ていた。 「父の研究だったみたいなんです。変若水なんてそんな夢みたいな薬を本当に作ろうとしていたみたいで」 「本当にこれはお前の親父さんのもんか?」 土方から真剣に尋ねられて、千鶴は首を横に振る。 「わかりません。父からそんな話は聞いてませんでしたから。でも、表紙の字は父の字です。それは間違いありません」 いつものカルテを書く字と同じ。だから千鶴は見間違えることはしない。 「私は自分がわかりません」 千鶴が土方にそういうと、土方はレポートから顔を上げて千鶴を見た。 「私は自分が知りたいです」 皆まで言わなくても、土方にはその先の言葉がわかったのだろう。 「あいつのところに行くつもりか」 「はい」 千鶴がうなずくと、土方は途端に険しい顔をした。何かを考え込むように目を瞑って眉間にしわを寄せている。 「自分の過去を知るってのは、お前にとって良いことじゃないかもしれねえ。もしかしたら想像を絶するような辛いことかもしれねえぞ。それでも行くって言うんなら止めねぇよ」 何かしらを知っているような土方がこうして千鶴に過去のことを隠したがるというのならば、それは良いことではないのだと千鶴は確信した。 「土方さんが頑張ってるのに、自分だけ胡坐をかいて座ってるわけには行きませんから」 冗談めかしたようにそう笑ってから、千鶴は表情を引き締めた。 「自分のことはちゃんと、自分で決着します」 このレポートを見てもまったく良い事なんてなさそうなのは、とっくに覚悟していたことだ。土方にも、他の人間にも、これ以上自分のことで負担にさせるわけにはいかない。 近藤がいなくなっておかしくなってしまったこの道場を立て直すのに、いっぱいいっぱいな彼らをこれ以上自分のことに巻き込んではいけないのだ。 千鶴も薄々気づき始めていた。父親は借金なんかしていたんじゃないと、千鶴と離れたのはきっと千鶴を巻き込まないためで、本来は別の用件だったのではないかと。 すべてを明かすために千鶴は自分を知る決意をした。時折見るあの赤い景色がなんなのか、その正体を知りたいと強く思うのである。頭の中で知りたいと叫ぶ声が聞こえる。それと同時に知りたくないという気持ちも膨れてはいるのだが、千鶴はその気持ちに無理やり蓋をした。前に進むには少しでも変化を得なければならない。その変化を得るカードが自分の下にあるのであれば、切るべきなのだ。 「わかった」 土方は苦々しくため息をつくと、レポートを千鶴へと返して腕を組んだ。 「お前は意外に強情だからな、駄目だと言っても聞きやしねえだろ。それにそんだけ覚悟があるなら、話を聞くだけ聞いてみろ。ただし、忘れるなよ。正しいことを知っているのは、お前の中に眠る記憶のみだ。他のやつらが何を言おうとすべてを鵜呑みにするんじゃねえ。お前が集めた情報をどう自分に取り込んで真実を見つけ出すかは、お前次第だ」 「はい」 「お前自身を信じてやれ」 土方の言葉は重いけれども、それだけに大きなアドバイスだ。彼は人を信じるなとは言わないが、自分を信じろという。それが土方なりの処世術なのだろう。 「はい!」 彼の気持ちを汲み取り逃さないように、千鶴は元気よく頷いた。 他の人間には何も言わずに出てきた。心配かけるのはわかっていたし、誰かしらついてくると言いかねない。 その気持ちはうれしいが、それでは駄目なのだ。一人でちゃんと立ち向かわないと、自分の過去とは決着がつけられない。そんな気がした。 だから千鶴は一人でここまで来た。休日の今日は学校も空いていない、調べていたら土方が風間の居場所を教えてくれた。結局頼ってしまったことを詫びたら、複雑そうな表情で「こんなもん調べなくてもわかることだ」といわれて、実際に来てみて納得した。 確かに調べずともわかる。風間が学校の理事とこの会社の代表取締役を兼任しているという話を知っていたら、行く先は一つだ。アポイントメントを取ってなかったので、断られることも当然あるだろうと思っていたが、いつでもきていいと言っていただけにすんなりと通してもらえた。 秘書だろうか、赤い髪をした男性からここで待っているように指示された千鶴は社長室の外に設置された恐ろしく高そうなソファに大人しく座って待つ。 時間にしては五分ほど。社長室のドアが開いて、中から金髪碧眼の外国人と共に風間が出てきた。 握手を交わした二人は何かしらを話している。珍しく風間の顔に嘲笑以外の笑顔めいたものが浮かんでいる。ちゃんと笑えるんだ、と何故か意外に思ってしまった千鶴は、見透かしたように千鶴に視線を向けた風間とばっちり目が合ってしまって、反射的に目をそらす。 外国人が一言二言告げると、風間が千鶴にまたも視線を投げかけながら外国人へ話していた。それが意図するところはまったく不明だったものの、外国人は去り際何故か千鶴ににっこりと笑ってエレベーターに乗っていった。 「待たせたな、こちらへ入れ」 相変わらず上から目線な風間の言葉にもう慣れてしまった千鶴は文句を言わずに大人しく従う。木目調の室内は木の優しさや温もりよりも品格があってまったく無駄がない。まるで部屋の持ち主と同じだなと千鶴は思った。 机の前には応接用のテーブルとソファが設置されている。このソファもまたふかふかしておりだいぶ高そうだ。 「座れ」 命令されて渋々従い、風間が座っている側と反対側を千鶴は借りることにした。 「突然お邪魔してすみませんでした」 座ってから謝罪と共に頭を下げると、風間は大して気にしてないのか「構わん」とぶっきらぼうに告げた。 「いつでも来いと言ったのはこちらだからな」 ぶっきらぼうであるにもかかわらず、今日の風間はいつもよりも纏っている空気が刺々しくない。 「どうぞ」 「ありがとうございます」 「天霧、下がっていい」 どうやら赤髪の男は風間の秘書のようなものらしい。彼は千鶴にお茶を出すと、言われるがまま一礼して部屋を出て行った。 部屋の中には風間と千鶴だけ。緊張する面持ちで千鶴は風間と対峙した。 「まずは、何故ここにきた……と、問いたいところだが。真実を知る覚悟でも出来たか」 風間の言葉を注意深く避けながら、千鶴は鞄に入れていた封筒を風間に見せた。 「不知火さんが私に持ってきたものです」 中に入っていたのは土方にも見せた『変若水計画』の研究レポート。しかし風間は驚くこともせずにそれに一瞥を向けると、千鶴を見た。 「なるほどな。父親がやっていたことが気になったか」 「私はまだ貴方を信用していない。だから貴方の話を鵜呑みにはしません。けれど、貴方が私に何を伝えたいのか、それを知るために来ました」 千鶴がそういうと、風間はふんっと鼻をならしたが、不快に思ったわけではないようだ。面白そうな表情で千鶴を見ている。 「思ったよりは馬鹿じゃないらしいな。他人を簡単に信用するのは愚の骨頂だ。しかし、信用してない相手の懐に飛び込んできたのは何故だ」 「虎穴に入らずんば虎児を得ず、ですから」 「なるほど、それくらいの覚悟はしてきたということか」 どうやらご機嫌を損ねるような発言はしなかったようだ。風間は千鶴の前で足を組むと、すぐさま切り出してきた。 「それでお前は何を知りたい」 「貴方が私に言いたいことを」 千鶴が端的に告げると、風間は声に出さずに息を吐いた。千鶴は言ったとおりだ。風間の言葉を聞きにきた。だから、彼が話し出すのを待つ。だが、風間の様子からして、簡単に済むような話ではないようだ。 「話にくいようなら、私も幾つか質問します」 千鶴の申し出に風間は腕を組んでソファに深く腰をかけた。 「それでいい」 風間が言葉に出来ないというのであれば、その手助けではないが千鶴ももっとも疑問に思っていたことを聞く。 「貴方はいったい誰ですか? 私と何のつながりがあるんです?」 「以前も言ったと思うが、お前は俺の婚約者だ」 風間が冗談でもなく本気でそう言っているのだと、千鶴もようやくわかる。 「正確には婚約者だった、だが」 過去形へとわざわざ言い直したのは、それに意味があるからなのだろう。 「俺とお前が婚約を結んで面識を持っていた期間は、約一年。お前が四歳の頃の話だ」 四歳といえば子供の頃の話だ。それならば普通に覚えていないこともあるだろう。子供の頃の記憶なんて曖昧なものなのだから。 「そもそも、どうして私が貴方の婚約者なんかになったんですか? こんなに大きな会社を持っているんだから、私じゃとてもじゃないけれど釣り合わない」 しがない町医者の娘に縁談話が来るなんてとてもではないが信じられなかった。よほど千鶴が美少女だったらそんな夢みたいな展開もあったかもしれないが、千鶴はいわゆる平凡な少女だ。しかも当時四歳の子供なら、その予測は益々遠ざかる。すると、風間は千鶴に思いもよらないことを告げた。 「釣り合いの取れる家系だったからだ。お前は町医者の娘なんかじゃない」 「え?」 「お前は雪村綱道の娘じゃない、正確には姪だ。お前の本当の父親が、我が社にも劣らない大企業、雪村財閥の社長だった」 雪村財閥と聞いて千鶴は目を丸くした。千鶴も耳にしたことのある、大企業だ。風間という名前が大企業というのを知らなかった世間知らずな千鶴だが雪村財閥の名前だけは知っている。 「そんな馬鹿な」 「俺は意味のない嘘をつく趣味はない」 確かに風間がこんな嘘をつく意味はまったくわからない。千鶴は理解がまだおいつかなかったが、とにかく話を進めた。 「だから婚約してたんですか?」 「会社の利益を考えた、政略結婚というやつだ。だが、お前の存在が消えるや否やすぐにも解消された。当然だろう、お前は本来ここにはいないはずなのだから」 どういうことだろう?と首をかしげると、風間は千鶴にもわかるように説明した。 「お前が五歳の誕生日、両親が死に家が全焼し、一緒に居たはずのお前は行方不明となっていた」 死体が出なかっただけで、生きているのかどうかもわからない。そんな扱いだったらしい。捜査はある日突然打ち切られて、この事件は闇に葬られたと風間は語った。 「あの、話があまりにも飛びすぎててちょっとついていけてないんですが」 徐々に混乱してきた千鶴は風間の話にストップをかけた。 「そもそも私が父さんの子供ではないという根拠ってあるんですか?」 「根拠はお前の記憶の中だ。思い出せば自然にわかることだろう」 「それに、本当の両親がもう死んでるって……だったら私の家族はもうこの世にはいないってことですよね」 「たった一人、居る。お前の兄だ。毛嫌いしていた俺の元にまで来るような妹思いな兄がな」 風間はなぜか嘲笑するようにそう言った。 自分に兄が居た。その事実に何故だか少し引っかかりを覚えた千鶴は。四歳の頃の記憶を取り戻そうと懸命に頭を押さえた。 「お兄さん……?」 ――ちづる、あしたになったら、いっしょにケーキを食べよう。やくそく。 千鶴の頭の中にぼやけた顔の男の子が映った。その男の子が差し出した小指が千鶴は嬉しくて、同じように差し出した自分の小指を絡ませた。 ――ゆびきりしたから、ぜったいだよ。 ――うんっ! あれは誰だろう。そもそもこれはなんの記憶だろうか。 自分の中に眠る記憶なのだろうか。この指を絡めた相手はいったい誰だ。 「痛い、頭が……っ!割れる……!!」 「ちっ、薬の副作用か……」 また、このことを考えたとたんに千鶴の頭に警鐘のごとく痛みが走った。この先を知ってはいけないと、誰かに言われているようで、千鶴は直後浮かんだ綱道を呼ぶ。 「父さん……!!」 ――大丈夫だ、千鶴。父様と母様にはちゃんと会える。会えるよ。だから今はお眠り。次に目が覚めたときは、きっと辛いことなんて何にもないから。 綱道がそう言った声が聞こえた。父様と母様って誰、何故そんな風に泣きながら笑って千鶴に言うのだろうか。父さんは何を隠しているの。 千鶴は混乱と共に激しくなってきた痛みに悲鳴を上げた。 「痛い!! いやだ、もう、やだ!」 「落ち着け、今痛みから解放してやる。天霧!」 頭を抱えて机へと崩れた千鶴を風間は両肩を支えて天霧を呼んだ。すぐに部屋へと入ってきた天霧は千鶴の状態を見て心得たように、小型のアタッシュケースを準備すると、それをあけて中から注射器を取り出した。 「失礼します」 天霧が千鶴に近づくと、千鶴は大人しくなるどころか、益々暴れた。注射が苦手だったとか、そんな理由ではない。その注射を刺されることが無意識に身体が拒否したのである。 「雪村、いい加減にしろ。お前はいつまでも痛みに耐えるつもりか」 風間も業を煮やしたのか、暴れる千鶴を押さえ込むように抱きしめて、腕を一本だけ天霧へと明け渡す。 すると、千鶴は全力でこれを拒否した。風間の肩に噛み付いて、彼の力が弱まるようにと攻撃をする。 だが、風間はびくともしなかった。 「早くしろ」 「はい」 天霧は返事と共にすばやい動きで千鶴の腕を取ると、その注射針を容赦なく千鶴に刺した。体内に入ってきた異物に強烈な吐き気が訪れ、千鶴は涙を浮かべた。そして寒気が全身を覆って、ガタガタと震えだす。 「あっ……う……」 声にならない声が千鶴の口から漏れる。涙がとつとつとあふれ出して、言葉が出ない。 「助けて……誰か……」 気持ちが悪くて視界もぐるぐると回る。風間から解放された千鶴は己の身体を抱きしめて、ソファに横たわった。こんなところで気を失ってたまるかという微かな意地で繋ぎ止めていた意識の片隅に、社長室の外の喧騒が耳に入ってきた。 「――いけません、ただいま社長はお取り込み中で!」 「関係ない! また勝手なことをしたんだろ、どけ――!」 大きな音と共にドアが開いて、誰かが入ってきた。涙で霞んでよく見えないのだが、その人物は真っ直ぐに千鶴に向かって歩いてきた。 「誰……?」 「千鶴!」 横たわった千鶴の身体をまるで労わるように、その人物は頭を撫でてくれた。 この人はきっと大丈夫だ。 そう思ったら、なんだか急に安心して、千鶴は目を瞑った。瞑った目の端から溜まっていた涙が全部零れて、誰かがそれを拭ってくれた。 なんだかそれが懐かしく感じられた。 → 20091117 七夜月 |