人形 走り去ってしまった薫を追って、千姫は走っていた。どこにいってしまったのかもうわからない。 早すぎて、追いつけなくて、いつもとは逆。 薫がこんなに早く走れるのを、千姫は知らなかった。 だから、今初めて知った。今まで千姫が追いつけないような速度では、薫は走っていなかったこと。 「薫……!薫どこ……!!」 あてずっぽうに、校内を駆け巡ってもしょうがない、一目散に外へ向かって飛び出したけれど、そこにはもう目当ての人はいなかった。 「薫!」 声が枯れるまで叫んでも、きっと薫は出てきてくれないだろうというのは知っていた。わかっていた。薫はそういう人間だ。底意地悪くて、自分と千鶴以外どうでもよくて、いつも一人を望んでいた。 こんなに足を棒にしてまで走っても、薫がこちらを気遣うことはない。だというのに、千姫は足を止められなかった。止めたくなかった。ずっと一緒だったから。知らないこともあるけど、知っていることもあるから。 出会ったときからずっと、放ってなんておけなかったのだ。 「今日から一緒に暮らす、雪村薫くんだ。千姫、仲良くしなさい」 父に紹介され初めて出逢った時、薫の顔や腕や足には、たくさんの痣があった。俯いた顔には子供心に不気味に感じるほど生気がなかったし、仲良くと言われても遠慮したい類の人だった。 そう、最初に見たときはただ見たままをふんぞり返ってこう言ったのだ。 「ネクラ!」 それが良いイメージを抱かないのは大きくなって気づいたが、出会いをやり直すことは出来ない。 千姫はあの日のあの言葉を、今でも後悔していた。 根暗だなんてひどいことを言った。 あの時の薫の目は今も決して忘れてない。どうしたって忘れない。 何を言われても構わないというように、まるで死んだ魚のように光を失った瞳。 子供心に怖いと思った。死というものが理解できなくとも、自分と同じ人間には見えなかった。 千姫は遠くで自分を呼ぶ声を聞いたが、無視した。無視して走った。止まってはいけない。 止まってしまったら、追いつけなくなると思った。 走りながらも過去への邂逅は止まなかった。 千姫、十歳。 「何黙ってんだよ、なんか言えよ」 「女みたいな顔して、気味がわりぃんだよ!」 「見ろよコイツ、何されても何も言わねえぞ。おもしれえ、もっとやろうぜ」 千姫は昔から、怒ると何をしだすかわからない子供だった。そしてそれは成長とともに少しずつなりを潜めていったのだが、時折途端にそれが顔を出す。 そう、まさにこんな時に。 「何やってるの、あなたたち!!」 「いってえ!」 薫を殴りつけていた少年の頭に履いていた靴を投げつけて、素足のままでカーペットに立っていた千姫の手には、脇に飾られていた大きなつぼが収まっていた。騒ぎを聞きつけてやってきた千姫の付き人兼メイドの君菊が悲鳴を上げるように真っ青になっていた。 「姫様!? おやめくださいそれは旦那様の……!」 「問答無用だわ!」 ぐっと眉を潜めた千姫は、決して躊躇することなくそのつぼを投げた。 「きゃあああああ!!」 君菊の悲鳴が屋敷に響き渡ったそのあとに、時価五百万円のつぼが割れる音が聞こえた。 「いじめられている薫を助けようとしたのはいい。だが、何故それからつぼを投げるという行為に発展したのか父にもわかるように説明してもらおうか」 静かに怒りを湛える父に視線を逸らしつつ千姫は答えた。 「だってあのひとたちが……」 「薫をいじめていたからつぼを投げてもいいというのか。それによって相手が怪我をしたり傷ついたりすることがあっても当然だと?」 正論をつきつけられて千姫は言葉に詰まる。そう思ってつぼを投げたわけじゃない。ちゃんと外すように計算した。そのおかげであさっての方向に飛んで行ったつぼは割れたが怪我人は一人もいない。 「父はお前をそのように育てた覚えはないぞ」 完全な父親からの拒絶の言葉に、千姫は俯いた。 「……ごめんなさい」 沈黙した千姫の代わりに、か細い声が父に向けられて発せられた。 「ごめんなさい、全部僕のせいです。ごめんなさい」 「薫……」 ごめんなさい。何度も謝る薫の表情はまったく変わらない。 つぶやくようにごめんなさいと言い続ける。機械のような感情のこもらないまなざし。 「もういい、お前たちは部屋に戻りなさい。君菊、二人を部屋に連れて行け」 「はい」 退出を命じられ、父の部屋から出ると、途端に千姫は薫に食ってかかった。 「なんであなたが謝るのよ。悪いのは私でしょ!」 「千姫にそうさせたのは僕だから」 「そうよ! なんにも言い返さないし、やり返さないあなたが悪いのよ! 男でしょ!? どうしてやられっぱなしなの!」 「たくさん殴る人は大人しくしておけば、そのうち飽きるから。そうしたら、しばらくは殴られなくなる」 その言葉に愕然とした千姫は、二の句を告げずに手のひらを握った。すると、そんな千姫の肩にそっと手を置いた君菊が静かに首を横に振った。 「姫様、もうその辺でよしましょう。薫を部屋へ連れていくので、姫様はちゃんとベッドに入って眠ってくださいね」 「わかってるわ」 君菊は薫の背をそっと押して、千姫を部屋の前に置いて薫を連れていく。 千姫には理解できなかった。 「それでも、殴られたら痛いわ」 どうして殴られるままでいればいいなんて思ってしまうんだろう。どういう環境でいたらそんな考えが生まれるんだろう。千姫と薫の間には埋められない溝がある。千姫には決して薫の気持ちが解らないし、薫もきっと千姫に解ってもらおうとは思わないだろう。 だが、千姫は解りたいと思う。だってせっかく『家族』になったのだ。仲良くなれれば仲良くなりたい。 千姫は諦めたくないと、小さいながらに思っていた。理解することをあきらめたら、今日薫をいじめていた奴らと同じようになってしまう気がする。そんなのは絶対にいやだった。 君菊に言われた通りまっすぐにベットへと戻って千姫は目を閉じた。 薫が来て、もう三年は経っている。なのに、一向に薫の様子は変わらなかった。その間いじめられることもあれば、千姫が来て助けることも頻繁にあった。いじめられるたびに薫は心を閉ざしたように無表情でそのいじめを受けていた。そんな時、父が薫に勧めたのは武道を習わせることだった。身体が丈夫になれば心も少しは鍛えられるかもしれないという思いがあったようだ。 「お父様、私もやりたいわ」 千姫もせがんでみたものの、父は断固としてそれを許さなかった。女の子なんだから女の子らしくしなさいというもっともな建前を言い続けたが、実際はこれ以上家のものを千姫に壊されないための予防だと後々君菊から諭されて泣く泣く諦めたのだ。確かに力をこれ以上つけたらそれを揮わないという約束はできない。きっと薫がいじめられていたら壁の一つでも壊すだろう。 薫は武道に黙々と取り組んだ。根が真面目で努力家だからか、筋が良くすぐにもたくさんのことを覚えていった。だが、その表情が取り戻されることはなかった。試合に勝ってもうれしそうな顔を一つしない。試合を見に行った千姫の方が喜んでいたくらいだ。 千姫は疑問だった。勝ったのに嬉しくないのだろうか、いつだっていじめられていた薫が、初めて他人に勝てたのに。 「ねえ、嬉しくないの?」 帰りの車の中で尋ねた千姫に、薫は瞬きをした。 「嬉しい?」 「だって勝てたのよ? 試合に勝ったんだから、もっと喜んだっていいじゃない」 「どうして?」 「どうしてって」 「今日、初めて人に勝って解った。僕は今まで僕を殴ってきた人たちと一緒だ。結局僕も変わらない。暴力でしか強さを表現できない。それに何の意味があるの?」 唖然として千姫は言葉を失った。薫が言っていることの意味は千姫の中では消化しきれないほどに大きなものだった。しかも薫はそれを嘆いているのではなく、純粋に疑問に思っているのだ。何の意味があるの?と薫は問うた。けれども千姫には薫を満足させられるような答えが出なくて、結局は閉口するしかなかったのである。 いつだってそうだった。薫は物事に執着しない、淡白な人だった。何をやっても何をやらせても、ただそれを黙々とこなす。自分を磨くという感覚ではなく、与えられたからやるだけ。そういう人だった。 そんな彼が、感情を初めて表したのは、風間と出会ってからだった。風間と出会って、彼は変わった。 千姫の婚約が決まった日、当然のように千姫は薫も一緒にその場に連れて行った。彼女にとって薫が傍にいることはもう絶対条件なのだ。 だから、連れて行った。そのことを、千姫は今も後悔していた。もしこの時風間のところになんか連れて行かなければもっと別の道が開けていたのではないかと、そう思えて仕方ない。 風間は薫を見て、驚いたように「雪村薫」とつぶやいた。そして薫も風間を見て、同じような表情をしていた。 「遠い親類に引き取られたと聞いていたが……まさかこんなところで会うとはな」 「……風間千景」 薫の目に、光らしきものを見た瞬間だった。 千姫と風間の婚約だったはずなのに、千姫は完全に蚊帳の外だった。何で二人が知り合いなのか、薫は口を固くして決して開こうとはしなかった。彼と会ったことで薫に変化がもたらされたことは間違いない。以前よりも感情を出すようになった。最初は喜ばしいことだと千姫も思っていた。しかし、時を重ねるごとにそれはマイナスの感情、憎しみという感情が育っていたのだと知った。笑っても、皮肉のように唇を持ち上げるだけ。心からの笑顔なんて見たことない。 いつからか、薫はいじめられることはなくなった。あれほど、殴られているときは大人しくしていればいいと言っていたのに、気付けば相手を伸すことも厭わなくなっていた。殴り続けて相手を病院送りにすることもあった。 自分だって骨折したりしてるのに、顔色一つ変えずに痛がりもせずに、そういう意味での感情を隠すのは相変わらずだった。 「薫……! かおるーーー!」 声は届かない。どれだけ遠くに飛ばしても、声は決して届かない。何処にもいない。千姫の声を聞く人が何処にもいない。誰にも聞こえない。 さすがに息が上がって、千姫はブロック塀に手をつきながら、滴った汗を拭った。ずっと学校を出てから走り続けている。 「はぁ……はぁ……」 喉が渇く。けど心はもっと渇いている。足りない、傍にいないと、物足りない。 千姫は顔をあげるとまた走りだそうとして、近くの公園に足を踏み入れた。 幻の白い雪が公園に降ってきた。 → 20100524 七夜月 |