所動



「何してるの、こんなところで」
 泣いてどのくらい経った頃だろうか。不意に頭を撫でられて、千鶴は顔をあげた。
 そこにいたのは沖田だった。
 泣いてぐしゃぐしゃになった千鶴の顔を見て彼は一瞬言葉を止める。しかしそのあと優しげに笑ってこう続けた。
「帰ろうか」
 沖田は何も聞かなかった。だから千鶴も何も言わなかった。何も言わずに彼の手に引かれるまま立ち上がって歩き出した。その間も涙があふれて止まらない。片手で何度も涙を拭う千鶴。だけどもう片方の手は沖田に繋がれ、固く握りしめられて決して離されなかった。

「おかえり。風呂の準備が出来ている、入ってこい」
 帰宅早々斎藤が出迎えてくれて、千鶴にそう言った。ここまで根回しがいいのは、千鶴の姿は傍目に見てもボロボロだったのだが、もしかしたら事前に沖田がそんな千鶴の状態を連絡していたのかもしれない。けれど、千鶴はそこまで頭が回らなかった。ただボーっとしながら痛みを感じていただけだ。千鶴の身体は転んだ拍子にすりむいた膝や手のひら、至る所から血を流していた。
 千鶴はありがたくお風呂に浸からせてもらって、口元まで湯に沈んだ。お風呂独特の水音以外が無音の世界に、思考はどんどん膨らんでいく。千鶴は今日会ったのが綱道なのは間違いないと考えていた。娘だからこそ解ったのだ。
 何度も思い出すのは父の去っていく後姿。
 あれだけ泣いたのに、またも浮かんできた涙に千鶴は浴槽に潜り込んで目を固く瞑った。
 叫んだ千鶴の声は父には届かなかった。父は千鶴に背を向けたのだ。何も聞けなかった。何も解らなかった。もう一度ようやく会えたのに、千鶴の言葉は父へ伝わらなかったのである。
 転んだ拍子に出来た擦り傷にお湯が染みる。だがそれよりも痛むのは千鶴の心だった。
 ようやく掴んだ手がかりだったのに、それをみすみす逃した。
「父さん……」
 呼んでも聞こえないし、届かない。そのことが絶望的に感じられて、千鶴は我慢できずに伝った涙を擦った。

「父さん、って呼んだんだよね。千鶴ちゃん」
 千鶴が風呂に入っている間、居間にはほぼ全員が集まっていた。千鶴の状態が普通じゃなかったこともあり、その顔は各々心配や思案が浮かんでいる。そんな中、壁に寄り掛かっていた沖田がそういうと、上座に座っていた土方が反応した。
「いたのか」
「僕は見てないですよ。誰を指してるのかもわからなかったし」
「平助は?」
 原田に問われて、平助は首をすくめた。
「悪い、俺も屋上から見ただけだから詳しいことは全然」
「そもそも綱道さんの顔を知っているのは私たち古参ですからね。沖田君や平助君が解らなくても当然です」
「違いねぇ」
 曖昧な笑みを浮かべた山南に、土方もため息をつきながら同意した。
 足音をさせながら居間に歩いてきたのは、新八だ。
「泣いてるぜ、あの子。風呂場の前通ったら、すすり泣く声聞こえた」
「新八…お前まさか覗いてたんじゃねえだろうな」
「馬鹿か、んなことするわけねえだろうが!……泣いてる子をこれ以上どう傷つけるんだよ」
 原田のいつもの軽口にも、語尾では覇気をなくしたように俯いてしまった新八。軽口の応酬は今日ばかりは形を潜めていた。
 そして部屋の中に沈黙が落ちる。数秒、それぞれが考え込むように視線を落とすと、土方が顔をあげた。
「……俺が話す。あいつに手を差し伸べてやれるのは俺たちだけだ。近藤さんがいない今、代わりに俺が話を聞く」
 モノ言いたそうな顔をした沖田だが、最終的に反対はしなかった。
 土方が話を聞くという点でいえば、この中で言えば一番筋が通っていてそれが妥当だからだ。
「斎藤、あいつが風呂から上がったら俺の部屋に来るように言ってくれ」
「はい」
「他の奴らは余計なこと言うんじゃねえぞ、普段どおりに接してやれ」
「了解」
 流れとして解散になり、居間に残っていたのは茶を飲んでいた土方だ。沖田は寄り掛かっていた壁から背を離すと、ふと思い出したように土方から少し離れて座った。
「土方さん、もう一つ話があるんですけど」
「なんだ」
「松本先生が帰ってくるって話、知ってます?」
「いや、いつの話だ」
 沖田の話に食いついたのは、土方だけではなかった。山南も足を止めて、二人の話を窺っている。
「いつっていう具体的な話は僕も知らないですよ。けど、この間病院でそういう話をしてました」
「そうか……」
「なんかこういうときってタイミングって重なるものですね。千鶴ちゃんにとって大事なことがどんどん押し寄せてくる。松本先生のもとで預かるはずだった彼女はどうするんですかね?」
「そんなのは俺が決めることじゃねえよ。それより総司、お前の方はどうなんだ。医者からなんか言われてねえのか」
「特には。経過観察だそうです」
 にこっと笑った沖田に眉間にしわを寄せた土方は、愚痴るようにこぼす。
「ったく、少しは大人しくしやがれ」
「あはは、善処します」
 そう言いながら沖田は部屋を出て行った。部屋を出ようとしていた山南を通り過ぎて、彼の姿は廊下の奥で見えなくなった。
「気になりますね」
 山南が声に出してつぶやき、土方に視線を向ける。
「沖田君の言った言葉、気になります。確かに雪村君にとって大事なことが一気に訪れています。まるで何かの前触れのようだ」
 土方は山南の言葉を無言で受け止めた。
「考えすぎ、とは言わないんですね。それでは私も失礼します」
 山南は苦笑して、今度こそ席を立った。
 土方はため息を押し殺して飲みかけの湯飲みを一気に飲み干した。


 部屋に戻った千鶴が斎藤に言われて土方の部屋に行くと、ドアの中からいつものように土方から「入れ」と声がかかった。
「失礼します」
 一声かけてから千鶴は部屋に入った。千鶴が来るためか部屋の中心で座っていた土方の前に「そこに座れ」と指されて、千鶴は座った。
「まずお前に返すものがある」
 そして土方の手に乗っていたのは、千鶴の男子校の制服だった。薫に貸したはずの制服が帰ってきたことに、千鶴は安堵と同時に青ざめる。なぜならあのまますぐに帰ってきてしまったため、薫の制服は自分が着てきてしまったのである。
「メモが挟んで、玄関前に紙袋と一緒に置いてあった」
 メモには『雪村さんへ』という言葉とともに、薫からの伝言が書いてあった。
『急用が出来てしまい、先に帰ることになりました。制服を借りたままだっだのに本当にすみません。私の制服は予備を幾つか持っていますので、捨てていただいて構いません。こんな書面でお礼を述べるのは申し訳ありませんが、今日は本当にありがとうございました』
 さすがに捨てることはしないが、急がなくても大丈夫ということには安堵した。制服も転んだ拍子にあちこち泥だらけになってしまっていたので、せめてクリーニングにでも出さないといけないと思っていたのである。
「まどろっこしいのは性に合わねえから単刀直入に聞くが、何があった?」
 真剣な土方の目。もとより誤魔化すつもりなどなかった千鶴だが、土方の視線に耐えかねて視線を落とした。
「父が…いたんです」
「親父さんが?」
「はい、間違いないです。変装してましたけど、でもあれは父です」
「話せたのか?」
 千鶴は首を横に振る。
「そうか」
 土方もそれはわかっていたので、深くは追求しない。
「止まってくれませんでした。待ってって言ったんですけど、まるで私なんて見えてないように振舞ってて」
 思い出すだけで胸が凍りつきそうだ。いつだって優しかった父が初めてとったその態度。
「もしお前が見たのが本当に親父さんだったとして、お前の言うような態度をとったとするなら、それは理由があるからじゃねえのか」
 土方に言われて、千鶴は目を瞬かせた。
「理由?」
「たとえばお前に接触できないような何かがあるとか。そもそも親父さんはお前を遠ざけるために松本先生にお前を預けたんだろうが」
 確かにそれはそうだったけれども、だとしたらその理由というのは何を指すのだろうか。当初は借金取りから逃げるために、松本を頼ってきた千鶴だ。だが、借金取りの正体が風間率いるグループだったことで、事態が変わった。借金から逃げるためではなく、父が逃げたのは別の何かであるということがこれまでで解ってきていることだ。
「父は逃げながらも今日学校に来たってことですか?」
「そうだろうな」
「だって、風間さんの学校ですよ? 敵の懐に飛び込むようなものじゃないですか」
「敵の懐に飛び込まざるを得ない事情があったんだろ。それだけの危険を冒してでも確かめなければならないことがあった」
 そう言いながら土方は何かを思い出すように思案顔になる。
「今日は交流祭だ。外部からの人間が入ってきててもおかしくねえ。罠を張るなら絶好のチャンスだな」
「え?」
 罠?と疑問符を浮かべて千鶴が土方を見つめると、土方は千鶴にもわかるように説明してくれた。
「そもそも、風間たちはお前の親父さんを捕まえたがってるんだろうが。だが、お前をダシにしても今まで捕まえられなかったってことは、別の餌が必要になる。その餌を撒ける機会は限られてるんだろ。それが何かまではわかんねえが、俺だったら少なくともチャンスを逃さす手はないと考えるな」
 ということは、つまり、交流祭のときに何かしら父をおびき寄せるための罠が張られていたということだろうか。そして父は危険を承知で、その罠を確かめに来たと。
「父はどうして来なければならなかったんでしょうか」
「そこまで俺にはわかんねえが、あいつらが張る罠ってことは俺らが知らない情報なのは間違いないだろ。つまり、お前が不知火から預かった、あの例の文書に関係あるんじゃねえか?」
 土方から言われてようやく千鶴はそれに思い当った。『変若水計画』と書かれたあの資料は机の引き出しに眠っている。
「私、もう一度あの資料を読んでみます。何か手掛かりがあるかもしれません」
 千鶴の目に強い意志が宿り、土方の表情も穏やかなそれに変わる。しかし、その表情は長くは続かなかった。
「ああ、だがその前にもう一つ話がある」
「なんでしょうか」
「まだ未確認の情報だが、松本先生が帰ってくるらしい」
「松本先生が…ですか?」
 目を丸くした千鶴に、土方はそのまま続けた。
「ああ。俺たちは何も言わない。だからお前が決めろ。お前がどうしたいのか、それも考えておけ」
 土方の部屋を退出した千鶴は、とぼとぼと廊下を歩いていた。父の件に加えて聞かされた松本の話は千鶴に決断を迫っていた。一緒に住まないかと言ってくれた千の時とはまたわけが違う。本来預かってほしいと父が願っていたのは松本であり、この道場にではない。
 だから悩む。このままこの道場に甘えてもいいものなのか、考え込みながら歩いているとちょうど部屋から出てきた平助と鉢合わせした。
「あっ」
「よ、よう」
 そういえば平助と別れる前に大事な話があるといっていた、それを思い出した千鶴は真っ先に頭を下げた。
「今日は大事な話があるっていってたのに、ごめんね」
「あー…いや、いいんだ。お前も大変だっただろ」
「ううん、もしよければ今聞かせて?」
「……また今度にする」
 何故か周囲にちらちらと視線を飛ばした平助。千鶴は話が聞けなかったことを残念に思いながらもそれ以上深くは追求出来なかった。平助が胴着を持っていることに気付いたのである。
「道場行くの?」
「ああ、少し頭冷やそうかなーって思ってさ」
「そうなの、気をつけてね」
「ああ、ありがとな。じゃあ、夕飯には戻るからさ」
 そして平助は千鶴を見て複雑そうに笑うとそのまま玄関に向かって行った。それを見送って、千鶴は部屋に戻ると引き出しにしまっておいた『変若水計画』を引っ張りだした。いい加減中の写真を見ても吐かなくはなったが、やはり見ていて気分のいいものではない。かといって見ないわけにもいかないので、最初からページをめくる。
 そもそも、何年も前に凍結されたはずのこの計画で、どうして今になり父が逃げることになったのだろう。よくよく考えたらそれ自体がおかしいことではないのか。昔悪いことをしていたのがバレたから逃げた、というのも納得できるようで出来ない。父は悪いことをしていたら、きっとそれを認めるはずだ。それくらいの分別はきちんと持っている人なのは千鶴がよく知っている。逃げたりせずにその場で罪を認めるだろう。
「もしかして、父さんは逃げているわけではないの……?」
 もし、父が逃げているわけでなく身を隠してるとしたらその理由はどこから来るのだろうか。表だって動けない理由があるということは、やはり後ろ暗いことがあるからなのだろうか。
「全然わからない」
 資料を読んでいても、今まで以上の情報は入ってこない。未だに解明されない暗号のような文字も相変わらずだし、千鶴は気分転換でもしようかと部屋を出た。夕飯の買い物に行こうかとバックを持つ。玄関を見ると、沖田が靴を履いていた。
「沖田さんお出かけですか?」
「うん、病院にね」
「……ここのところ毎日行かれてませんか? 具合が実はすごく悪いんじゃ……」
 千鶴が顔を曇らせると、沖田はにこっと笑って肩をすくめた。
「残念ながらそういうわけじゃないよ。実はね、ようやく土方さんが近藤さんの居場所教えてくれたんだ」
「土方さんが?」
「そう、だからお見舞いにね」
「そうだったんですか……あ、それじゃあ今日は私もご一緒していいですか?」
 すると沖田は困ったように千鶴の頭を撫でた。
「今日はちょっと、別件もあるから。また今度一緒に行こうか」
「は、はい」
 くしゃくしゃっと撫でた千鶴の頭をまたぽんぽんと叩いて、沖田は出かけて行った。沖田はああ言っていたが、千鶴も近藤さんにすごく会いたくなった。会って今の気持ちを全部話したい、眠っている近藤に聞こえないのは解っていたが、彼の姿を見るだけでも千鶴は安心できるような気がする。
 千鶴は部屋に戻って『変若水計画』の資料を手にすると、土方に一声かけてから買い物と病院に行く旨を告げて家を出た。


 





   20100513  七夜月

Other TOP