背中



「怪我を負わせただと……?」
 応接室の革張りの椅子に座って風間が問い返すと、反対側で尊大に足をのばしながら座っていた薫が無気力な声で「ああ」と答えた。
「あまり面倒を起こすなと言ったはずだが?」
「仕方がないだろう、ナイフ振ったら切れちゃったんだからさ」
 あまりの物の言い方に、風間は溜息でそれに応じる。
「人間って、あんなにも簡単に切れちゃうものなんだと初めて知ったよ。だったらきっと、殺すのは簡単だろ」
 独り言のように呟いた、薫は特に風間に同意を求めてほしいわけではないようだった。自分の手を握ったり開いたりしながら、虚ろ気に話している。だから風間も何も言わなかった。
「だから、簡単に死んじゃう生き物なんだ」
「……そうかもしれんな」
 風間は立ち上がると、窓際に寄った。今日は雲っていて月が見えない。
「今宵は叢雲の影に隠れたか」
 雲に遮られて光が届かず、月はどうしているだろうか。届かない光を思って泣いているかもしれない。月の力では雲を動かすことは出来ない。月の光を届けてくれるよう、強い風が雲を動かすまで、月の顔はいざ知らず。

「これを……ですか?」
 斎藤の部屋に呼ばれた千鶴は、手元に乗せられた紫の包みに首をかしげた。自分にはまったく見覚えがない。雪村の家に代々伝わる家宝と聞かされていたが、実際家宝なんて千鶴は見た記憶がない。もしかしたら、完全に蘇っていない記憶の中にはあるのかもしれないが。
 急いでふろしきの包みを開くと、そこには黒い小刀が入っていた。長さは目測三十センチ、脇差と呼べる長さのものだ。鞘も柄も漆が塗られているのか、美しい闇色をしていた。鍔の部分に金箔が控えめに施された装飾は、厭味がない荘厳さを醸し出している。唾には赤い組紐と鈴がつけられていた。
「刀……?」
 千鶴は目の前で柄を握って力を入れる。すると、あっさりと鞘から抜き身の刀身が現れた。きちんと手入れをされているのか、刃の部分は鏡のように千鶴の瞳を映している。
「少し見せてくれ」
「はい、どうぞ」
 千鶴は鞘に戻して、斎藤に刀を手渡す。斎藤はゆっくりとした動作で鞘から刀身を抜き出すと、やはり千鶴と同じように目の前で反転させたりと何かを確認している。
「これは……本物だな。斬ろうと思えば斬れる代物だ。代々伝わるというからには、おそらく昔に作られたものだろうが、未だにこの美しさを保っているのはきちんと手入れをしている証拠だろう」
「そうなんですか」
 と、言われても刀なんてさっぱりな千鶴は適当に相槌を打つしかない。何がすごいのかというのは、千鶴が言われても解らないものだからだ。値段は張るんだろうなと、庶民的な物差しでしか測れない。
「えっと、それで、これを私に渡してどうしたかったんでしょう?」
「それは俺にも解りかねるが、とにかくお前に届けたがっていた。預かったものとしてはその責任を果たさねばならないからな。確かに渡したぞ」
「はい、ありがとうございます」
「ああ、俺からの話はそれだけだ」
「はい! ありがとうございました!」
 ぺこりと頭を下げてから千鶴は斎藤の部屋を出た。交流祭最終日のこの日、千鶴は自分の学校で平助と共に学生を勤しんだ。しかし、学校には綱道も薫も姿を現さなかった。何かを仕掛けてくるかと思って心していただけにいささか拍子抜けである。とはいえ、襲われることを期待していたわけでは当然ないが。
「この脇差どうしよう……とりあえずしまっておけばいいのかな。でも、もし雪村家当主のものだっていうのなら、薫さんに返した方がいいんだよね」
 廊下で唸っていると、ちょうど部屋から出てきた山南とすれ違った。
「どうしましたか、こんなところに立って」
「あ、山南さん。今ちょうどこれを斎藤さんから渡されたんですけど、どうしたらいいのかと思って考えてたんです」
「これは? ……もしや、昨日斎藤君が土方君に報告をしていた君への預かりものでしょうか」
 ああ、と思い当たる節があった山南の言うとおり、これは預かりものである。千鶴は頷いた。
「はい、そうなんです」
 中身は包んであって見えないため、それを開いて刀を見せる。山南がこめかみを押さえて、眼鏡をあげる。
「おや、脇差ですか。しかし、今の時代に脇差というのはなかなか珍しいですね。ずいぶん古い家宝のようだ」 
「今の時代には合わないですよね」
「まあ、家宝ということですから、代々伝わっているんでしょう。大事にした方がいい」
「はい、そうします。……あ、ごめんなさい。話に付き合わせてしまって、おでかけですか?」
 声かけして気付いたが、山南の恰好を見るに特に出かけるといった様子はなく、むしろ手に桶と手ぬぐいを抱えている。風呂だろうか。
「ああ、いえ。ただ桶に水を汲みに行こうと思っただけです。これから土方君の包帯を換えるんですよ。そうだ、君にお願いしたいのですが。この桶に半分くらい水を汲んで、土方君の部屋まで持ってきてくれませんか?」
「おやすい御用です、任せてください! すぐにお持ちしますね」
 市販で売っているようなプラスチックの桶を千鶴は受け取ると、洗面所へと向かう。だが、とりあえず作業するのに刀が邪魔だ。一旦部屋に戻って刀を置いてくると、千鶴は一目散に洗面所へと向かった。しかし、身体を拭くだけならばいざ知らず、患部に水道水というのは問題なので、思い直して台所へ向かった。
 水道水をそのまま使わずに、浄水器のスイッチを切り替えて水を出す。桶を一度洗ってから、指示された通り半分まで水を入れた。
 土方は自分が怪我したことを山南と斎藤にしか知らせていなかった。わざわざ言いふらすことでもねえよとのことだったが、おそらく千鶴を気遣ってのことなのだろう。もしかしたら自分が怪我をしたことを周囲に知らせたくないだけかもしれないが、それは土方に聞いてみないと解らない。素直に答えてくれるかは別として。
「ここの人たちは、皆いい人」
 良い人たちだから、千鶴は困る。居心地の良い場所は、離れるのにとても勇気があるのだ。いつまでも一緒にいられないのは、しょうがないことだが、それをいつまで経っても先延ばしにしたくなるのだ。
 本当は、この家に居てはいけないというのは、もう頭では分かっている。
 迷惑をかけてしまうことも解っている。
 けれども行動に移せずにいるのは、やはり自分がまだまだ甘いからだろう。ここで皆と一緒に居たいと思う心がまだ残ってるから。
 未だ目を覚まさない近藤にも託された想いがあって、千鶴はそれを簡単に切り離すことが出来ない。沖田も居なくなってしまったけれど、ここにはまだ、土方が居るから。
「ちゃんと考えなきゃ、私がこれからどうするべきなのか」
 ここに残りたいのならよりきちんと考えなければならない。時間は待ってはくれないのだから。
 千鶴はまとまらない考えをそのままにして、土方の部屋の前まで来ていた。ノックをすると中から「入れ」という声が聞こえた。
「失礼します」
 千鶴が部屋に入ると、ちょうど山南が土方の包帯を取っているところだった。充てていたガーゼには乾いた血がついていて、千鶴は目を伏せた。目を逸らすべきではないが、患部を凝視することも出来ない。血や患部が怖いのではなく、様々なことを思い出すのだ。
「雪村君、ありがとうございます。そこに置いておいてもらえませんか」
「あ、はい」
「雪村、お前、斎藤から何か受け取ったらしいな」
 桶を置いて退出するべきなのか迷った千鶴は、その場に留まる意味を込めて正座した。
「脇差という刀でした。雪村家の家宝らしいんです」
「脇差? また古風なもんが家宝だな。それで、どうしたんだ?」
「今は自室に置いてあります。いずれ、薫さんに返すつもりです」
「そうか。お前が預かったもんだ、お前のしたいようにすりゃいい」
 そうこう話しているうちに、山南は汚れた包帯を片付け終わった。それから、少し目を見開いて珍しくも眉根を下げている。
「土方君、すみません。包帯がちょうど切れています、在庫の確認を怠ったようです。今すぐ代用品を買ってきます。しばらく待っていてもらえますか?」
「あ、なら買い物は私が…!」
「いえ、包帯の種類も有りますし、在庫管理する上でも私が行った方がいいので、雪村君は土方くんの身体を拭いていてあげてください」
「おい山南さん、そのくらい自分で出来る」
「手が届かない所だけでもやってもらった方がいいと思いますよ。怪我人は清潔第一ですからね」
 山南の笑顔には無言の圧力が加わっていた。
 千鶴は元から断ることも出来ず(断る気もなかったが)、山南を見送った。
「ったく、山南さんも気ぃ遣い過ぎなんだよ」
 ぼそりと土方が呟いて、千鶴はえ?と土方に振り返った。
 土方は自分で桶の中に浸した手拭いを絞ると、それで腕を拭き始めた。
「お前も、気なんか遣わなくていいから、さっさと部屋戻れ」
 土方が追い出したくてそんな言い方をしたわけではないので、千鶴は首を横に振る。土方に気を遣わないときなど無いが、それでもおそらく土方が思ってるような気を遣ったことなど無い。
「俺の傍に居ても、なんも楽しいことねえだろうが」
 土方はきっと何気なく言ったのだろう。だけど、千鶴は聞き捨てることが出来なかった。
「背中、お拭きします」
「だから、いいっつってんだろ」
「お拭きします!」
「あ、おい!」
 千鶴は半ば宣言めいたようにそう言うと、土方の背中に回り込んで、土方から強奪した手拭いを桶に浸すと、ギュッと絞った。それから、ごつごつしたその背中に手拭いを当てる。ゆっくりとした動作で前後させていると、土方がはぁっと溜息をついた。
「お前、本当に変なところで強情だな」
「思い出したんですけど、私の母様もちょっとそんなところのある人でした。だからきっと、血筋です」
「あーそうかい、遺伝子レベルじゃもうどうしようもねえな」
 土方の背中を見ていると、近藤の病室に連れて行ってもらったときを思い出す。あの時、千鶴はこの背中に頭を押しつけて泣いた。
 土方の前では臆面なく泣いてばかりだ。気を遣ってくれているのはいつも土方だろうに、千鶴はいつも土方の悲しみや寂しさにはすぐに気付けない。
 山南が千鶴を残したのは、きっと土方の傍に誰か居させるためなのだと、ようやく解ったのである。
 近藤から沖田を任されていたのは、千鶴だけじゃないはずだ。当然土方だって近藤から頼まれているに違いない。けれどその土方を近藤は千鶴に頼んだ。だから千鶴はこの背中から目を逸らしたくない。頼まれたからというのもあるけれど、それ以上に千鶴の土方への信頼感がそれを強く思っている。
「土方さんは、ここになんでも背負ってらっしゃるんですね」
 千鶴が土方の背中に向かってつぶやくと、土方は居心地悪そうに身じろぎした。
「俺が背負えるもんなんて、そんなにねえよ。だけど、背負えるもんなら全部背負ってやりてぇな」
 土方の呟きはおそらく、近藤の怪我や沖田の病気を指すのであろう。否、それだけでなく、平助が抱える家族の問題や原田や新八にもあるであろう悩み、すべてをひっくるめているのかもしれない。当然、千鶴が抱えている千鶴自身の問題も。
「そんなに背負ってくれなくていいんですよ」
 千鶴はポツリと呟いた。
「私のことまで背負ってくれなくていいんです。土方さん、本当に背負い過ぎだと思います」
 土方は手を止めた千鶴を肩越しに振り返る。そして、そのまままた首を戻して俯く。
「……ったく、お前は。気が強いくせにすぐ泣くな」
「……泣いてないですよ」
「鼻垂らしながら言うんじゃねえ」
「!? た、垂らしてません!」
 思わず千鶴が鼻を啜ると、土方は肩を震わせて笑った。
「お前もな、すべて背負おうとしなくていいんだ。お前が背負ってるもんに、俺達が背負えないもんが一つもねえわけねぇんだよ」
「その言葉、そっくりお返しします。……きっと沖田さんならこういうと思います」
「ほう? 言うようになったじゃねえか」
 土方は楽しそうに笑った。こんなに穏やかに笑ってる土方を見るのは、千鶴はもしかしたら初めてかもしれなかった。
 本当は自分が情けなくて不甲斐なかった。今一番つらいのは土方だろうに、その土方に気を遣わせてしまう自分がひどく無狽ナ、このままいっそ退出しようと思った。けれども、土方は千鶴が居ても居なくても、ここでこうしてたくさんのものを背負っていこうとするのだろう。だったら、千鶴の分まで背負わせるわけにはいかない。
「土方さん、やっぱり私、土方さんに背負ってもらうわけにはいかないです」
「強情だな」
「だから代わりに、たまにこうして背中貸して下さい」
 土方が振り向く前に、千鶴は彼の背中に直に手のひらを当てる。
「それで、たとえば泣いたりしてたとしても、見ないふりをしていただければ助かります」
 どうも土方の前では涙腺をコントロール出来ないようだから、せめて気付かないフリをしてくれれば、それで十分だ。
「……わかった」
 手のひらに直接響いた土方のわかったがとても優しい響きで、千鶴は顔元が緩む。
「土方さんも私に貸して欲しかったら言ってください、背中でも胸でもどこでも貸しますから」
「バーカ、生意気言ってんじゃねえよ」
 背中から伝う声は声というより振動で、千鶴はこみ上げる感情を噛み殺してその背中から手を離した。そして、タイミング良くノックの音が聞こえて、山南が戻ってきた。
「お待たせしました、それでは今のうちに換えましょうか」
「早かったんですね」
 千鶴が土方の背中から退いて山南に場所を譲るように空けると、山南が手にした包帯と笑顔を見せる。
「そこで源さんに会いまして、火急分だけ分けてもらったんです。またあとで買い物には行きますよ」
「悪いな」
 土方の謝罪に山南は首を振ると、千鶴と土方を見て、何かを思うように頷いた。
「やはり、君を残していったのは正解だったみたいですね」
「え?」
「土方君もそろそろ、肩の荷を下ろす頃合いだと言うことです」
 きょとんとした千鶴に、何故か憮然とした様子の土方。それぞれを見比べた山南は訳知り顔で微笑んだ。
「雪村君、留守番ありがとうございました。あとは私がやっておきますから、結構ですよ」
「いえ、それでは私は部屋に戻りますね」
 失礼しますと二人に声をかけて、千鶴は土方の部屋を退出した。


 





   20100805  七夜月

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