不変



「ここに来るのは二回目……だよね」
 千鶴は相も変わらず空へと聳え立つような巨大ビルを前にして、気が進まないながらに手を握り締める。とにかく、今日ここへ来たのはちゃんと訳があるのだ。
 以前ここに来た時、千鶴は途中で意識を失い全部を聞けなかった。聞かなければならなかったこと、何一つ聞けなかった。だから、今度はちゃんと聞くのだ。この耳でしっかり、風間の話を聞く。
 千鶴は前へ進みたいと思っている。だけど、それには千鶴が知るべきことがまだあるはずで、それを知らなければおそらく千鶴が前へ進もうとしても空回るだけ。
「大丈夫、ちゃんとここまでこれたんだもの。だから大丈夫」
 前とは覚悟が全然違う。以前ここへ来た時の覚悟と比べ物にならない。それを知ることで自分がどうなるかはわからないけれど、恐れている場合ではない。よし、と自分を鼓舞して社内に入ろうと千鶴が自動ドアを潜ったところで、目的の人物が前方から歩いてきた。ラッキーと思う反面、もしかしたら仕事でこれから出るのかもしれないと思ったら、生来のお人よしのため足が止まった。
「では、この件はこのまま進めろ。あと、これは決算処理へまわしておけ」
「わかりました、そのようにいたします」
 歩きながら上着を着るということは、これから出かけるということに他ならない。彼が持っていた資料を手近の部下に渡したところで、千鶴の視線に気づいたように顔をあげた。
「雪村千鶴……? こんなところで何をしている?」
「……あの、お出かけなら出直します」
 用件を言おうか悩んで、千鶴は結局出直す道を選んだ。相手は社会人だ。学生の本分が勉学で在るように、社会人として為すべき仕事があるのである。アポ無しでやってきた千鶴の方が出直すのが当然。
「……ふむ、どうやら暇なようだな。ついてこい」
「はっ? あの、ちょっと……!」
 千鶴の返事も聞かずに手を引き始めた風間に千鶴は面食らうも、お構いなしと言わんばかりに会社前へ止められた風間に車へ押し込められた。
「出せ、天霧」
「はっ」
 運転手まで勤めているらしい秘書の天霧は、風間の言うとおり車を発進させる。
 後部座席に押し込められた千鶴は威嚇するように風間を見上げながら、シートベルトに縋った。車に乗ったのだから締めなければいけないとという思いと、締めたら逃げられなくなるという思いの狭間で揺れ動く。
「どういうつもりですか?」
「どういうつもりもなにも、お前は話を聞きに来たのだろう? だったら話してやろうと思ったまでだが?」
「これじゃ立派な誘拐です! 拉致監禁です!」
 千鶴がそう言いよっても、風間はどこ吹く風と言わんばかりに一蹴した。
「特に法を犯すような真似をした覚えはないが」
「してます、今、現在進行形でしてます! そんな自覚がないと言わんばかりに言っても無駄ですよ!」
「ふむ……なるほど、閉鎖空間というのがまずいのであれば仕方ない。天霧、行先を変更する。食事会はキャンセルだ」
「しかし、先方との取引は如何なさいますか?」
「構わん、斬り捨てろ。もとより弱小企業だ。こちらが手を貸すいわれはない」
 なんだかよくわからないが、千鶴のせいで今ものすごい大変なことが起きようとしているのではないだろうか。会話から判断した千鶴は、風間と天霧の二人の会話に無理やり入り込む。
「よくわからないですけど、とにかく今までの予定をキャンセルなんてしないでください! 私はちゃんと待ちますから!」
 千鶴がそう言えば、風間はちらりと千鶴を見て、それから天霧に向き直る。
「だそうだ。行先は変更なしだ」
「了解いたしました」
「聞き分けの良い嫁で助かるな」
「貴方の嫁になった覚えはありません!……とにかく、私がお邪魔したんですから、私のことは後回しにしてくださって結構です。風間さんはご自分の予定を最優先して下さい」
 この人と話をしていると、とても頭が痛くなってくる。千鶴は痛みを訴え始めた頭を押さえながら、どこに向かうのかわからない車内の窓から外を眺めた。
 窓に写ったのは景色と、それから鏡のように薄らと反射した風間の顔。こちらへ視線を向けているわけではなかったが、彼の姿を見て千鶴は溜息をついた。
「悩み事か?」
 こちらを見もせずに、風間が千鶴に問いかける。
「いいえ、そういうわけではないですけど……というか、悩み事は常に抱えてますけど」
 もっぱら今の考え事は、目の前にいる風間本人のことであるのだが。
「風間さんは、風間財閥のご子息なんですよね?」
「ああ、そうだ。改めてなんだ?」
「いえ、ただ……やっぱり想像つかないです。わたしと婚約者だったなんて。だって住む世界が違い過ぎるんですよ」
 千鶴の目から見ても、今風間が着ている服装からこの車にいたるまで、すべての次元が違うのはよくわかる。生まれが風間が言っていたように雪村の出だとしても、庶民育ちの千鶴には敷居の高いものばかりだ。それを裏付けるようにこの車が、ロールスロイスというのだと後々千鶴は知ることになる。
「どうしてそこまで、固執されるんですか? 今のわたしには何の価値もないと思うんですが」
「そう思うのは本人だけだ」
「よくわからないですけど、もしかして父と母が財産でも遺したとか……?」
「それはとうに薫が相続している。死んだお前に支払われる金など一銭もない」
「だったらどうして」
 千鶴にここまでこだわるのだろう。それは千鶴にしてはとても自然な疑問ではあった。風間にどんな理由があったのかはわからないが、今の千鶴はいわば価値のない存在だ。一度は死んだ人間になど、どんな価値があるというのか。
「お前が生きているからだ」
「はぁ……?」
 風間の答えは答えているようでまったく不可解だった。答えになっていないような気がする。だが、風間はそれ以外の答えを持ちえていないのか、それとも答える気など毛頭ないのかだんまりを決め込んだ。
「天霧、やはり今日の予定は変更する。会食後のすべての予定をキャンセルしろ。どの道、会社に戻るだけだからな。久しぶりに半休を取る」
「え?」
「了解いたしました。では予算会議は私の方で進めさせていただきます」
「ああ、頼んだ」
「ちょ、ちょっと待ってください! だから、私のことは後回しにしていただいて結構ですから!」
「お前のためでなく、俺が半休を取るのだ。何か文句でもあるのか?」
 風間から凄まれてしまっては、千鶴も首を振ることは出来ない。しかもなんだか「勘違いするなよオーラ」が風間からは出ているように感じる。千鶴だって風間の動向を縛る権利などないのだから、本人が休みたいと言っているのであれば、どうすることもできない。
 それから今度は千鶴がだんまりをきめた。喋っても余計なことを言ってしまいそうだったし、何より風間が喋ろうとしなかったから。無言の時間は風間が車を降りるまで続けられ、それから千鶴は彼が仕事をしてる間、ずっと車の中で待機していた。(降りるのを拒否したためである)車内には、彼の纏う香水の香りが微かに残っていた。香りは厭味にならない程度のものだったが、普段その手のものをつけない道場のみんなと違って落ちつかない。せめてもと車の窓を開けた千鶴は、立ち去っていくその背中をばれないように睨みつけた。

 コンクリートに囲まれた駐車場の中、一時間一人でボーっとしていると、風間が戻ってきた。だがしかし、彼は千鶴の隣ではなく、真っ直ぐ運転席へと向かった。しかも躊躇いもせずにエンジンをかける。
「あの、天霧さんは?」
「あいつは仕事だ。なんだ、あいつが気になるのか?」
 そうではないが、行きが一緒だった相手の居ない車内を不自然に思わない人間がいようか。否、居るわけがない。
「風間さんはお仕事を本当にお休みするんですか?」
「半休とはそういうものだ」
「……意味はわかるんですけど、正直言えば信じられないというか。なんか仕事放り投げる風間さんっていうのが、想像つかないというか」
「……ほう、つまりお前は俺が放りだすような人間ではないと信頼している、そう言ってるわけだな」
「違いますっ! なんでそう自分に都合のいいように解釈出来るんですか!」
 千鶴の悲鳴じみた叫びにも風間はどこ吹く風と言った具合だった。要するに、この人はこれが普通なのかもしれない。だとしたら、会話するのもそれ相応の対応を取っていればいいのではないだろうか。最初から諦めていれば頭の痛い思いもせずに済む。
 彼がまともに仕事をしている様を見て、ようやくこの人は普通に仕事が出来る人なんだと千鶴は知ったわけだし、出会い頭がアレだったからちょっと妙な印象が拭えないのだ。
「おい」
「はい、なんですか?」
「お前も腹ごなしの時間だな」
「……そうみたいですね」
 車内に取りつけてあるデジタル時計は正午を少し過ぎた辺りだった。千鶴の腹も空腹を訴え始めている。合唱こそ始めてはいないが、お腹が空くと元気が出ない。渋々ながら同意をすると、風間はミラー越しに千鶴を見てふっと笑った。
「ふむ、お前はいつも何を食べている?」
「……自分が作ったものですけど……」
 千鶴が警戒しながらそう答えると、風間の目が若干開かれる。
「お前が作るのか。まるで下働きのためにあそこにいるようだな。本来お前は仕える者が居る立場だろう」
「あそこの家で住むための、私の仕事なんです。好きでやってることですから、風間さんになんと言われても構いません」
 皆のお世話をすることが仕事ではあるが、それ自体には誇りを持っている千鶴はむっとして言い返す。
「……得意料理はなんだ」
「え? 肉じゃが…ですけど……」
「聞いたことがある、肉じゃがという料理は男を陥落させるために食べさせる一等級品だと。つまり、お前は俺のことをその肉じゃがを使って落として見せると、そう言うことだな? お手並み拝見というところか」
「はっ!? なんですか、その偏り過ぎてる知識は! 一体誰から聞いたんですか、というか、流れ的に私が作ることになってませんか!?」
「問題あるまい、では材料を買いに行くぞ。スーパーとやらに売っているのだろう」
「問題大有りですっ! 確かにスーパーに売ってますけど、ってそうじゃなくて!」
 それから一応抗議の声を上げ続けた千鶴だったが、風間の高級車は気付けば場違いなほどに地元民で溢れるスーパーの駐車場へと止められていた。
 ずるずる引っ張りだされた千鶴は、溜息をつきながらジャガイモをカートに乗せられた籠に入れた。風間は視線でちらちら店内を観察している。そして時折千鶴に話しかける。
「おい、あれはなんだ」
 入口付近にある大きな自動販売機にも似た機械。だが、その機械の頭上には天然水という看板がある。
「あれはお水です。専用のボトルさえ買えばいつでも無料でお水が汲めるんですよ」
「ほう。では、あの空のボトルが専用のボトルか」
 その隣に山と積まれた空ボトルを指しているのだと、千鶴は頷いた。
「4リットルタイプと2リットルタイプがあるみたいですね」
「ものは試しだ、買ってみるか」
「はっ!? なんのために!?」
 驚いたのは千鶴だ。
「水が出てくる様が見たい」
 そんな理由で!?と顔が引きつりそうになるのを押さえて、千鶴は必死に首を振った。
「駄目です、風間さんもうここにくるつもりないでしょう? 仕事場からも近いとは言えないし、無駄遣いしちゃいけません! 空ボトルだって安くないんですよ!? ワンコインでお釣りがくるかこないかなのに……!」
「ワンコインというのは要するにいくらだ」
「500円です!」
「安いだろう」
「高いんです、家事を担う側としては! 今は野菜の値段だって上がってるのに、500円あったら、もっといいもの買えますよ! とにかく、諦めてください」
「…………」
 それでも名残惜しげに水の機械を見つめる風間に、千鶴は仕方なしに溜息をついた。
「わかりました、風間さんのお金ですからそんなに欲しいなら買いましょう。水が出るところ見られたら満足なんですよね?」
 千鶴はカートを押しながら水の機械へと一目散に歩いていく。そして2リットルのボトルを選ぶ。こちらはいささかお安くなっており、ボトルとカード合わせて300円で買えた。カードと言うのはカードリーダーに通すためのものだ。このカードがなければ水自体が出ないようなシステムになっている。サービスカウンターに行き、水を出すためのカードを発行してもらった。
「はい、どうぞ」
 手に入ったばかりのカードを千鶴は風間に手渡すと、風間は物珍しげにカードを裏返したりしていた。
「キャッシュ機能はついてないのか」
「有るわけないじゃないですか、キャッシュカードじゃないんですから。それはただのカードです。お金を積んだりは出来ませんからね」
 念のために警告をしたら、次は風間にカードの向きと通し方を一通り説明して水を汲む。カードを通せば洗浄用に最初に水が出て、それが終われば扉が開くようになっている。それから空ボトルをセットして扉を閉じると、ボトルの容量に比例するボタンが点滅するのだ。2リットルのボタンを押せば、水の排出が開始された。
「……これだけか」
「何を期待してたのかは知りませんが、これだけです。だから言ったじゃないですか、無駄遣いになるって」
「しかしなかなか面白いものを庶民は嗜むのだな」
「……それは良かったですね」
 ちょっとがっかりしてるのかと思えば、すぐに立ち直る辺り風間である。てっきりもう少し不平不満を言うのかと思ったが、こういう場では空気を読めるようだった。むしろがっくりしたのは千鶴の方だ。なんだか、たかが水を汲むのにものすごい労力を使った気がする。
 それから買い物を再開する。子供のようにあれはなんだこれはなんだと聞かれ続け、逐一丁寧に説明していた千鶴なのだが、なんだかこうしていることが意外過ぎてふっと気付く。確かに面倒くさい相手ではあるが、嫌いだったわけじゃない。今さらながらにそう気付いた。


 





   20101112  七夜月

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