幕開 高速を降りた車は広い道路から徐々に山奥へと進み、気付けば辺りは完全に森状態。山道を走っている。車内もPAで止まる前よりもギスギスした雰囲気は和らぎ、千鶴も素直に声に出して景色を堪能していられるようになっていた。 「そういえば、千鶴ってどんなところに住んでたんだ?」 助手席から首を無理やり曲げて後ろを振り返りながら、平助は尋ねた。当たり前だが、そんな無茶な体勢が続く訳もなく、程なくして彼は前を向いたのだが。 「そういえば、まだ話してなかったっけ?」 「確かに、お前の口から聞いたその手の話はあんまりねえな。親父さんとの思い出は聞いてたりしたが」 土方までもが口を挟んできたので、千鶴は少し驚きながらも別に不快ではなかったので嬉々として語りだす。 「首都圏ですが小さな町です。都心まで快速に乗れば電車で三十分とちょっとなんですけど、すごい田舎で。あの、こういう連綿と連なる山とは違いますが、裏手には森があったり近くには川があって、そこの土手が小さな頃から私の遊び場なんです」 小さな頃は仕事をしている父親の邪魔にならないようにと、一人で遊ぶことが多かった。友達と遊ぶこともあった、でも長期休みとなると家族旅行や実家へ帰ってしまうことも多くて、千鶴は一人が多かった。 「大きな川だから、有名だと思います。台風になると、いつも川が増水して中州に取り残されてしまう人がいたり大変なんですよ。釣りが大好きな人が多くて」 千鶴の顔には本人が気付かないのだが苦笑が生まれていた。自分のことだからだろうか、必死というよりは饒舌に喋る千鶴に、平助は驚き土方も目を瞠って口を挟まず聞いている。 「でも、町の人たちはいい人ばかりなんです。挨拶は自分から必ずしてくれるし、年配の方が多いから、小さな頃は帰りに友達と色々な家からお菓子貰ってました。今思えば、父さんの患者さんだったから、顔見知りが多かっただけなのかもしれませんけど」 楽しかったなあ、と噛みしめるように千鶴は呟いた。 「春は小学校に咲く桜がすごく綺麗で、夏は田んぼのあぜ道でこっそり水遊びして怒られたり、秋はススキ野原で背比べしたなあ、冬は雪があまり降らなかったけど寒くて毎日のように庭のバケツの水に氷が張ってました」 一年を通してすごく楽しかった。一緒に季節を感じてきた町だ。千鶴は苦笑から微笑みに変えていた。 「いい町だな」 平助がそう言うと、千鶴は満面の笑みで頷いた。 「うん、すごく良い所だよ! 皆本当に優しいの」 平助はちらりと後ろを振り返り、そして笑いながら前を向いた。 「じゃあさ、皆で今度一緒に行こうぜ。ピクニックとか良いよな、お弁当持ってさ。ちょっと遠いかもしんねえけど」 「ぜひきて! 私、案内するよ!」 どんと任せて!と千鶴が自らの胸を叩いて力強く頷くと、土方も相好を崩しながら再び窓の外へと視線を向けた。斎藤もバックミラー越しに一瞬だけ千鶴へと視線を移したが、すぐに前を向いた。 「その場合、もっと大きな車でないと全員は入らないのではないか?」 「全員だったらマイクロバスくらい必要なんじゃねーの?」 笑いながら付け加えた平助に、千鶴もくすくすと笑った。 「まず家の中に全員が入らないかも。診療所の上の階が家だったから、大人数だとすごくせまく感じると思うよ。物置小屋と思うかも」 近藤の家のあの大きさは千鶴には初めてだったから、尚更そう思う。全員で泊るのは少し厳しいかもしれない。千鶴が廊下で寝て、父の寝室と千鶴の寝室兼居間を開け渡せばなんとかなるかもしれないが。 「あはは、さすがにそれはねーって」 だが、よくよく考えたら個人の家の規模を知らない千鶴は、やっぱり自分が一番貧乏かもしれなかった。診療所は儲けを期待して営業するものではない、医療機器もなるべく新しいものを取り入れる努力はしているが、全てのものにお金が掛けられたわけではないのは消耗品が中心ということで明らかだ。 ただ、父は借金だけはしない人だと思っていた。特に闇金に手を染める人ではないから、父から話を切り出された時は驚いたものだ。父はたまにモニタになったと称しては新しい医療機器を持ってきたから、本当は購入したものなのに千鶴に心配かけまいとついた嘘だったのだろうと後に納得した。だが、不知火たちが借金取りではないと知った今、あの機器は謎である。一体どこから手に入れたものだったのか。 千鶴は父が新しい機器を持ってきたときのことを思い出した。 ―父さん、どうしたの? 新しい機械なんて、買うお金ないのに。 ―ああいや、買ったわけじゃない。ちょっとしたツテで譲ってもらったんだ。最新機器ではないけれど、これだって十分今まで以上に患者さんを看ることが出来るよ。 ―そうなんだ! 良かったね、父さん。 ―ああ、そうだね。これで少しでも多くの患者さんを救えるようになる。 手に入れる経路を千鶴が知る由もない。だからその時の父の表情しか千鶴は覚えていないが、父は喜ぶというよりも悔いるような表情でそう呟いた。だから千鶴はそれ以上突っ込んで聞くことが出来なかったのである。 それに、その時はその生活に不満がなかった。だから気にも留めなかったのかもしれない。千鶴はふと思いつく。もっと、父と話せることはあったのではないだろうか。父の様子は千鶴が気付かなかっただけで、どこかおかしいところがあったのではないだろうか。千鶴がもっと気をつけて見ていたら、今とは違った未来になっていたかもしれない。仮定のことを思っても何もならないけれど、そんな風に考えだしたら止まらなくなった。 戻ることが出来るのならば、幸せと感じられたあの頃へ戻りたい。 「家に、帰りたいか?」 千鶴の思考を汲んだように土方が声をかけてきた。やっぱり千鶴の方を見ていたわけではないけれど、千鶴は土方を見て首を振った。 「今のまま帰っても、意味がありませんから。帰るのは、父さんがいるあの家です」 過去の自分は何も出来なかった。だからただ戻るだけではダメなのだ。何も知らないままでは未来は変わらない。変える意思を持って初めて、未来が動いていく。 「そうだな」 「だ、大丈夫だって! 俺らも綱道さんのことちゃんと見つけるし!」 「心配するな、事態が悪くならないよう、俺達も全力を持って事に当たるつもりだ」 励ますような三人の言葉を受け止めて、千鶴は微笑んだ。 「ありがとうございます」 今千鶴が知っていることは、こうして千鶴に協力してくれる人たちに感謝をして、それから彼らに害がないように動くこと。綱道を見つけ出して、それから千鶴は”知る”こと。 車に沈黙が落ちる。それぞれ考えることに没頭しているのか、言葉を出す人間はいない。そうしながら山道を走っていた車は、昼間なのに徐々に暗がりへと入り込むようで千鶴は眉を潜めた。その土地の持つ空気と言うか、そう言ったものが明るさではなく陰気さを纏っているのである。そんな中、平助が声を挙げた。 「あんなところに建物がある。もしかしたらあれじゃねえの?」 千鶴も運転席と助手席の間から顔を出して覗く。するとフロントガラスの向こう側に、白い建物が見えていた。 「そうかもしれないです。こんな山奥に病院があるなんて、変な感じですね」 「これが本当にただの病院ならな」 土方が加えた一言に千鶴は気付いた。自分で言った言葉通り、病院がこんな山奥にあるのは普通考えにくい。否、正確に言えば、おかしい。有り得ないと言ってもいい。 普通の患者を受け入れるような病院ではないとわかっていたからこそ、土方はあんなにも強固に反対したのだと今さらながらに千鶴は解った。一人で来ていたら何かあっても無事では済まなかっただろう。 「着いたぞ」 車が停止して全員が降りる。白い外壁で覆った外観は病院というよりも廃屋で、幽霊スポットにでもなりそうだ。外壁には蔦が生い茂り、門にまでびっしりと生えている。施錠の壊れた門は風に揺られてギィィィイ……と音を立てている。 「こ、怖ええ……」 千鶴も唾を飲み込みながら平助に同意した。雰囲気は完全にお化け屋敷である。斎藤は壊れた施錠に近づくと、それを取り去って簡単に門を開いた。不気味な音を立てながら開く門。彼は注意深く周囲を見渡してから、スタスタと先立って歩き出した。千鶴はその後ろをついていく。更にその後を平助が続き、殿を務めるのは土方だ。 それは五階建てくらいの古い建物だった。外から見ても窓はほとんどない。昔ながらの四角い取っ手のついたドアを押しながら入ると、中は真っ暗闇だった。予想していたのか、斎藤は背負っていたショルダーバックからライトを取り出すと、明かりをつけた。左右に分かれた暗い廊下はどこまでも長く続いている。廊下の脇には白い布をかぶせたものがあり、おそらくは積み上がった段ボールなどであろう。白い布はおそらく埃除けだ。その証拠に、布には埃が積もっている。ということは、ここは廃棄されてから結構な時間が立っているということだ。ただ、廊下には足跡がある。埃の上につけられた足跡だ。真新しいものが複数ついている。もしかしたらここをお化け屋敷として入り込んだ人間がつけたものかもしれないが、それだけでも普通に恐ろしい。千鶴は前を歩く斎藤の服の裾を無意識に掴んだ。 「雪村、どうした」 「はっ! す、すみません。ちょっと怖くて……」 振り返った斎藤に言われて千鶴は裾を掴んでしまっていたことに気付き慌てて離す。 「そうか、掴みたければ掴んでいろ。転ぶなよ」 斎藤からお許しが出たので、千鶴は遠慮なく袖を掴ませてもらうことにした。後ろを歩いている平助が、「ず、ずりぃ……」と呟いたので、千鶴は振り返った。 「平助くんも一緒に掴む?」 「や、そうじゃなくてさ」 「悪いが、雪村一人で手いっぱいだ。これ以上は服が伸びる」 「掴まねーっつの! ああ、もういいや。とにかく行こうぜ!」 平助が元気よくそう言った時だった。 「伏せろ!!」 殿を務めていた土方が叫んで、反射的に斎藤から頭を押さえつけられるように千鶴は身体を地面に倒した。すると千鶴が立っていた壁や付近で大きな音がした。花瓶が割れるような音、それから白い煙が上がった。その音に間近で身体を低くしていた平助の顔色が変わる。そして立ちはだかっている土方が何かを投げるのを見て、腰を落としながらも背中を押さえた。平助くん?と千鶴が問い掛ける前に、再び事態は急変する。 「斎藤!!」 再び叫んだ土方の声。千鶴は訳も解らずその言葉に反応した斎藤に手を掴まれいきなり走り出した。近くにあった階段を駆け上がっていく。階下では白い煙が土方たちを取り巻いていた。走る直前に、土方たちが睨んでいた先に赤い光が見えた気がした。 「さいっ!」 「喋るな、走れ」 静かに叱咤され、千鶴は口を閉じて黙ったまま足を動かした。階段を駆け上がり、千鶴は斎藤に手を引かれながらひたすら走った。三階まで一気に駆け上がる。階下ではものが割れる音や何かが破裂する音が聞こえていた。 「なるべく足音を立てず、喋るな」 消えそうな声でそう言われ、千鶴も頷き返し廊下を見渡した。上がってしまった息を静かに正しながら、状況を掴むために脳内をフル回転させる。千鶴たちを突然襲ったのは、まさか幽霊?あの大きな音もラップ音で、ポルターガイスト現象!?とパニックを起こしかけるものの、冷静な部分も残っており土方と平助の対応の良さの疑問などが浮かんでくる。斎藤に手を引かれたまま、手近な部屋の中へと入る。そこは病室のようだった。ベッドが一台と手近にパイプ椅子だけがあった。窓は当然ない。ただ、おかしなことに、ベッドには黒い革の手錠のようなものがついている。隠れるところなど一つもない場所だった。隣に居た斎藤はすぐに部屋を出て別の部屋を覗く。前の部屋も同じようにベッドとパイプ椅子が一つだけ。他の部屋も見たが、ベッドだけしかない部屋もあった。共通していたのは、ベッドには必ず黒革の手錠と、部屋には窓が一つもなかったことくらいだ。まるで、隠れる場所などないというように、部屋はシンプルなものばかりだった。 千鶴はデジャヴを感じた。 ―千鶴、これで元気になれるよ。あと少しだから。 ―……うん。 前に一度、ここに来たことがなかっただろうか。その時もこうやって、誰かに手を引かれていなかっただろうか。混乱した頭を抱えながら、千鶴は一番端の部屋に来た。そこは手術室のようだった。患者の身体を照らす大きなライトの下には、白いシーツのかけられた手術台が置いてあった。 ―どうしてみんなくるしいの? ―生きているから。 ―みんないきているの? ―そう、千鶴とおんなじ。みんな人間だから、生きてるんだ。 「だ、め」 手術室へと入ろうとした斎藤の手を引っ張って、千鶴は首を振った。斎藤は振り返り、千鶴の様子を見て声には出さないが怪訝そうだ。 「駄目、です。ここは駄目。入ってはいけない場所です。ここは危ないところです」 千鶴が喋ったのではない、頭に浮かんだ言葉がそのまま口に出ていたのだ。何故、と問われても千鶴には答えられない。しかし斎藤は何故とは問わずに、わかったというように頷いた。ホッと息をついた千鶴だが、次の瞬間千鶴は身体を押されていた。 「隠れろ。俺が時間を稼ぐ」 複数のコツコツと階段を上がってくる足音が聞こえた、ブーツの音は土方のものでも平助のものでもない。気配を消しもしていないが、人間のものであるのは間違いない。 幽霊じゃない。そう気付いた時に、千鶴の背筋を凍るような戦慄が駆け抜けた。幽霊の仕業なら良かった、だけど、幽霊じゃなかった。 じゃあ、あの足音は誰? 「大人しくしていろ。良いというまで絶対に出てくるなよ」 斎藤の言葉は場違いなほど柔らかかった、子供を宥める大人のように冷たさを感じなかった。だからこそ、不安が増長した。 ここは痛いところ。怖いところ。ここに入った人はみんな、苦しい辛いと叫んでいた。 そして千鶴の身体だけを中に残して、手術室のドアは閉められた。 → 20110114 七夜月 |