忘却



 父さんは小さな頃、必ず私の手を繋いで外を歩いた。
 少しゴツゴツした大きな手。
 父さんの手に包まれると、すごく安心した。
 大きな父さんの手は、私の手をすっぽり覆い隠してしまうから。
 あの頃はそれが普通で当たり前のことだと思っていた。
 温かくて、大きな、父さんの手。
 それはちゃんと、血が通った人間の手。

「着いたよ、千鶴。降りて」
 白いワンボックスカーに乗せられた千鶴は、薫に言われてゆっくりと顔を上げた。
 目隠しされるわけでもなく、車内で千鶴は比較的自由だった。拘束する意思がないというよりは、拘束する必要性がなかったためである。車内では終始俯き、一言も言葉を発しなかった千鶴に、拘束する意味は皆無だった。
 車内から降りて、通されたのはタワーマンションの前だった。風間の会社ほどの大きさはない。けれど、警備室を完備した華美なエントランスホールから察するに、セキュリティもしっかりした高級マンションだ。今は千鶴の視界にそれすらも入ってはこなかったが。
 千鶴が降りると、白いワンボックスカーは走り去ってしまった。残ったのは薫と千鶴の二人だけ。
「こっち」
 言われるまま歩き始めて、千鶴は再び俯いた。抵抗する気力はもうない。薫は千鶴から根こそぎ奪い取った。言葉も、思考も、そして大事な人たちも。
 沸き上がるべき感情は怒りのはずなのに、もう何も考えたくなくて千鶴は今完全に心すべてを閉ざしていた。
 薫はキーをかざすとドアロックを解除し、先に歩き出す。千鶴は黙って後に続く。二重にロックされている自動ドアを解除して、薫は三機あるエレベーターの右側に乗り込んだ。押されたボタンは41階。ボタンの配置は45階まであるので、高層階を目指しているようだった。
 エレベーターが到着して、静かにドアが開く。両サイドに四軒ずつ、そして真正面に一軒立ち並ぶフロアに薫は降り立つと真っ直ぐ歩く。向かう先は真正面の部屋だった。
 こちらは普通にキーを回して鍵を開けた薫は、玄関脇の何かのスイッチをつける。途端に廊下が明かりで照らされて暗闇だった部屋に光が灯った。マンションの一室で在るにも関わらず広い玄関。靴を脱いで上がっていく薫に倣って、千鶴も靴を脱ぐと無意識に屈みこんで揃えた。
 ふと玄関の様子が視界に映像として入り込んできて、そこには薫と自分の分の靴しかなかった。脱ぎ散らかした平助の靴、生真面目に揃えられている斎藤の靴、脱ぎ捨てたままの原田の靴、ある程度脱ぐ際に揃えられた沖田の靴、いつも端に添えられていた土方の靴。常に目にしていた玄関の様子とは殊更違う映像に、千鶴は目を閉じた。千鶴が覚えている玄関は、もう二度と千鶴の靴が置かれることはない。その事実がまざまざと蘇った。
「千鶴?」
 呼びかけられて、千鶴はゆっくりと立ち上がった。やはり涙が出ることはなかった。
 軽く部屋の中を案内された。お風呂場と洗面所、キッチンにリビング、そして個々の個室となるベッドルーム。千鶴は今日からここで暮らすのだと言う。同居人は薫ただ一人。薫と千鶴の部屋は別々で、隣同士だ。
 その説明を受けた後、千鶴はリビングにあるL字型ソファの端に座り込んで窓から外を見上げた。道場から見る月はとても高い位置にあって、まるで手など届かないと思っていたのに、ここはとても月が間近に感じられた。
「千鶴は泣かないんだ」
 千鶴が座るソファの対極側に座って、薫が尋ねた。薫は嬉しそうとも、喜びとも違う、ただ微笑みを浮かべている。
 千鶴は薫の顔をじっと見つめた。
「薫さんは泣いてるみたい」
 思ったままを口にした、彼の心情を読み取ることの出ない微笑から千鶴が導き出した答えはそれだった。
 千鶴は自分が口走ったことに意味などを持たせてはいなかった。そう思ったからそう言っただけなので、深い根拠などありはしない。
「もう涙は枯らしたよ」
 薫がそう言うと、千鶴は視線をずらすように再び月へと目を向けた。
「これで僕たちは同じだ。大切なものを失って、ようやく一緒の痛みを分かち合える。ねえ、千鶴……僕たちはまた兄妹に戻れるんだよ」
「…………」
 千鶴はその言葉には答えなかった。答えられなかった。
 月を見上げたまま空洞になってしまった心に光を求める。けれど、心には何も浮かぶことはなかった。
 

 山南が自室で作業をしていると、運悪くカップが手から滑った。陶器の割れる音がして、それがわりとお気に入りのものだったため溜息が禁じえない。それと同時に、妙な不安感にかられた。そしてその後、近藤宅の電話が鳴り響いた。山南への個人的な電話であれば、携帯へ連絡してもらうようにしているため、この家へ直接かかってくる電話は、道場関係のものかその他かに二分される。コール音が響き割れたカップを片づける暇を奪い、部屋を出た山南は電話に出た。
 嫌な予感はしていたのである。何か自分の手では対処しきれないような大きなことが起こるような、そんな気が。
 山南は電話口から発せられた自らの嫌な予感を的中させる報告に、受話器を握る手に力を込めるしか出来なかった。
 同時に、別の場所でも同じ報告を原田が私用電話に掛ってきた相手から聞いていた。
「土方さんと平助と斎藤が大学病院に搬送された!?」
 電話越しの相手に構わず怒鳴ってしまった原田は、頭に上った血を冷やすために一度息を深く吐いた。
「……んだと? おい、どういうことだよ左之」
 怒鳴り声が聞こえたためか、今日は早番で先に帰り支度をしていた新八が顔色を変えて振り返る。そんな新八に手で少し待てのジェスチャーを加えてから、原田は耳に神経を集中させた。
『何者かに襲撃を受けた模様です。確証はないですが師範代から尾けられているという報告は受けていました』
 原田に現状報告をしているのは、山崎だ。彼がどういった経緯で情報を持ってくるのか原田は預かり知らぬ所だが、彼の情報の信憑性の高さは良く知っている。そういった仕事をしているからだ。彼が黒と言えば、黒なのだろう。
「怪我の様子はどうなんだよ」
『それぞれかなりボロボロの様子ですが、命に別条はありません。普段からしごかれてますから、あの程度でしたら死にはしませんよ』
 山崎がそんな風に軽口を叩けるのだから、命に別条はないのだろう。
『土方さんについては以前の傷が開いて、更に内臓に深いダメージがもたらされたようですが、平助は額を少し割った程度でほぼ打撲と細かい切り傷、斎藤君も目立つ切り傷はありますが似たようなものです』
「まるで無抵抗だったみてぇだな」
 あの三人がほぼ打撲という点が、原田にそう結論付けさせていた。電話口でも頷くような気配を感じる。
『脅されて無抵抗にならざるを得なかったか、相手が彼らを上回る強さだったかのどちらかであると思われます』
「それで、千鶴はどうした」
 原田の問いかけに、一瞬息を飲む山崎。そんな雰囲気で原田は全てを察する。
『彼らが搬送された時点で、そのような人間はいなかったそうです』
「連れ去られたってことか!?」
『その可能性がかなり高いです。とにかく、俺は全員が目覚めるまで病院で待機します。雪村君については他の者にも後を追わせていますが、綺麗なくらい痕跡が見当たらないので、捜索が難航するのは確実です』
「……わかった、こっちも出来るだけのことはやってみるが、またなんかあったら連絡してくれ」
『了解しました』
 そして病院の詳しい連絡先等必要な情報を交換してから電話は切れた。待てのポーズのまま本当に大人しく待っていた新八に、原田は声をかける。
「新八」
「大体わかった。その病院には俺が行く」
 今までの電話から会話が察せられたのだろう。新八は馬鹿だが、頭の回転は早い。状況判断能力は警察官になる程度は持ち合わせている。これから直帰の新八が土方たちを見舞う、運が良ければ目覚めた連中から直に話を聞くことが出来るかもしれない。原田は仕事さながら情報を集める、役割分担は二人が声を掛け合った時にはすでに決まっていた。
「悪いな、頼むわ」
「なんでお前が謝るんだっつの。俺だってな、心配なんだよ」
 新八は表情を曇らせることはしなかったが、笑顔になることもなくそう言った。心配なのは誰が、なんて無粋な真似は問わない。原田もまったく同じ気持ちだからだ。
「まったく、揃いも揃って無茶しやがって」
 嘆息めいた息遣いさえ聞こえる。もっと熱く頭を怒らせるかと思っていただけに、原田は少し驚いた。
「お前、怒ってねえのか?」
「あ? 何にだよ」
 何にと問われると咄嗟に上手く言葉が出てこなくて、原田は答えに窮する。新八は何にかわからないことにでも怒りそうな気がしていたのだ。
「無茶やった奴らのことか? それとも襲撃した奴らか? それとも、攫われちまった千鶴ちゃんにか?」
 語尾は完全に冗談が含まれていた。もちろん、千鶴が悪いだなんて原田は思ってないし、そんなことを言うつもりはなかったが。
「怒ってんだよ、ちゃんと。けど……一番腹立たしいのは自分自身だ。お前だってそうだろ?」
「まあな」
 言われていることはなんとなくわかる、原田は迷わず頷いた。
「警官になったところで、近くにいる奴らを守ってやれねえのにでっかい正義振りかざすなんて俺は何様だって話だよ。けどさ、根底がぐらついちゃ、意味ねぇんだ。だから俺は迷わないし、これからもこの人生を否定するつもりはねえよ。まだまだ力が足りねぇんだ、その力は必ずつける。世話んなってる奴らにも胸張れるようにな」
 警官だからって全ての事象に対処することは出来ないが、それでも不可能と諦めない男が新八だった。
「お前って、そういう奴だよな」
「んだよ、それ。褒め言葉か?」
「そうかもな、じゃあ頼んだぜ」
 原田は深い追求を避けるように、追い払うように手を振った。改めて自分の相棒の器のでかさに感嘆したなどとは、調子に乗らせたくないので言わない。新八はまだぶつくさとこぼしてはいたが、やはり心配な面は隠せないのか大人しく従った。
「ああ、あとお前のバイク借りてくぜ」
「構わねえよ、好きに使え」
 いつもだったら勝手に乗ってんじゃねえと言いたいところだが、今回ばかりは即決で許可を出した。バイクの方が色々と好都合なのである。新八が出て行ったあと、原田は派出所の中で地図を開いた。だがここらの周辺地域ではない、土方たちが搬送された病院周辺だ。最新版の地図では大きな病院らしいことがわかる。それと交通の便は良さそうだが、大きな道の傍にあるので酷い混雑を招きそうだ。
 それから、千鶴たちがいったと思われる病院の住所を調べる。森の中心に一点、白い建物がある。特に何の建物であるかは書いてはいない。そこに行くまでの道は細い。山を越えるための道路を外れて途中からはほぼ一本道だ。
 ここに行くためには、国道から少し逸れた山道に入るようだ。
「搬送された病院とは違う、病院……か」
 これの意味するところは原田には解らない。交通の便から考えてみても、ここに病院があるとは考えにくい。あくまで地図上での情報しか原田は知り得ないが、病院かどうかはともかく、あそこが医療関連の施設であると千鶴たちは思ってでかけていった。
 呻きながら、指を指して他に何かないか巡ってみる。施設の他には、少し離れたところにダムの貯蔵池があるくらいだ。地図上で解ることはこれくらい。原田は地図を再び折り畳んで戻した。
 本日は夜勤だ、原田は翌朝になるまでは家に帰ることは出来ない。重くなる溜息をつきそうになって、原田はこらえた。


 





   20110506  七夜月

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