再起 大切なものはね、みんな忘れてしまうんだ。 それが大切なものであればあるほど、思い出せなくなる。 心の宝箱に鍵をかけて、大事にしまってしまうから。 そう千鶴に教えてくれたのは誰だったろうか。大切なもの、父さんとの生活、道場での生活、全部全部大切なものだった。 忘れてしまえたら楽になるのに、考えなければ苦しまなくて済むのに。 千鶴はカーテンのかかった車内の窓ガラスに頭を寄せながら浅く呼吸をした。目隠しは当然のようにつけられている。 この目隠しをしたときのように、何も見えなくなればいいと思った。いっそのこと、一生目隠しをしたまま過ごせれば、何も視ずに済むのだろうかとさえ思った。 瞼の裏にこびりついた映像は壊れた映写機のごとく、断片的に思い出を写し続ける。 耳も塞いでしまえば、聞こえるものは何もなくなるのに。 千鶴は今とても、人形になりたかった。 時は過ぎ、一番初めに退院の許可が下りたのは、平助だった。意外なことに、斎藤は斎藤にあるまじき冷静さを欠いた行為のため(病室を抜け出すということを頻繁に行ったため)、退院が長引いたのである。土方は以前の傷も含めて内臓へのダメージから考えてもう少し入院しなければならないのは仕方なかった。 「平助、退院したら無理せずに、だがギリギリまで無理してでもトレーニングを行って勘を取り戻せ。勘を取り戻すのが最優先だ」 病室へと顔を出した平助への土方からのお達しは矛盾に満ちたものだったが、平助は反論することはなかった。むしろ望む所だとすら思ったくらいだ。 「了解、土方さんの見舞いなんか来る暇ねーくらいトレーニングに勤しんでやる!」 「おう、上等じゃねえか、その意気だ」 パイプ椅子に座り、既に私服へと着替えている平助は、完全に退院モードだった。土方から頭を小突かれて、喜びにニヤつく。 「俺達は焦るわけにゃいかねぇが、努力は怠っちゃいけねえんだ。あいつを取り戻すんだろ?」 「あったりまえじゃん!」 「平助、道場のことを頼む」 「任せろよ、一君!」 斎藤からも一言声をかけられて、それから平助は十分な元気さをアピールするように腕をまわした。 若い分回復力も早い平助だ。おそらく鍛錬を少し積めばすぐにも以前と同じ動きが出来るようになるだろう。家には頼もしい兄弟子たちもいるし、練習相手には事欠かないはずだ。 「斎藤は三日後だったな」 「はい」 「俺はもう少しかかる。だから、お前らがまず本調子を取り戻せ。俺が勘を取り戻せるかどうかは、後々相手してもらうことになるお前らにかかってるんだぜ?」 「全力を尽くします」 斎藤は生真面目な顔で頷いた。土方は肩肘を張らせるつもりではないが、適度な緊張感を失わせるつもりもない。焦らないと言えば嘘になるが、事を仕損じる結果だけはもう二度と味わいたくないから確実性を高めて行く。 今は山崎も全力で千鶴の居場所を探してくれている。彼が本気を出したらどんな小さな糸口でも必ず見つけ出すだろう。千鶴の居場所へとつながる手掛かりが手に入る。山崎のことはそう信頼している土方だ。山崎もその信頼に応えるべく躍起になるに違いない。 斎藤も部屋を出て行き、土方は一人ベッドに横になった。一時の休息は計略的休息。本当の心休まる場所を手に入れるための、仮初めの休暇でしかない。 もう二度と、後悔はしない。近藤さんに誓った想いは、今もまだ胸に燃え続けている。 「よう、沖田。調子はどうだ?」 「あれ、左之さん。どうしたの? 珍しいね、お見舞い?」 病室で静かに本を読んでいた沖田のもとに来たのは、原田だった。ジャケット姿で小脇に抱えたヘルメットを見るに、ここまでバイクでやってきたらしい。手には一応見舞いらしきフルーツ籠を携えている。 「これお前食えるか? 食えなきゃ持って帰るけどよ」 「じゃあ林檎一個だけ食べるから、あとは道場の皆で食べなよ」 元々沖田が小食なのは知っているため、原田は疑問を口に出す。沖田もそう提案された方が正直有難いので、笑いながら林檎を一つだけ受け取った。ここであえての花という選択肢をしない辺りがさすが原田というべきか。沖田は相変わらず面倒見が良いな、と苦笑した。 「今剥いてやるよ、ちょっと待ってろ」 「ありがとう」 沖田の手から林檎を受け取り、原田は持っていた果物ナイフでするすると林檎の皮を剥いていく。時々皮が途切れるたびに「あーくそ」と悪態をつくのが面白い。 「道場のみんなは元気なの?」 「あ? まあ、な。お前の方はどうなんだよ。この間連絡したときには、さほど変わった様子は見えなかったが」 「僕は変わらないよ。新薬治療も良好ってわけじゃないけど、病気が進行してるわけでもないしね」 まあ、経過観察だと、沖田は笑った。 「本当はもっと早く来ようと思ってたんだが、遅くなっちまって悪かったな」 沖田の様子に原田は胸をなでおろしたようだ。そんなことを言いながら林檎をさくさくと切りながら等分していく。 「千鶴の奴もお前のこときっと心配してるぞ。一緒に連れてきてやりたいのは山々なんだけどよ、ちょっとあいつごたごたしてて」 「……この間から思ってたんだけど、千鶴って誰?」 原田の林檎を剥く手が止まる。顔を上げて沖田と視線を合わせて、苦虫をつぶしたような顔をする。 「俺はこの間、その手の冗談に付き合うつもりはねぇって言わなかったか?」 沖田も原田に感化されたように、憮然とした表情をして抗議した。 「僕を担いでるつもりなのか知らないけど、僕は騙されないよ。一体何がしたいの、左之さん」 そりゃこっちの台詞だ!と言いたくなったのを飲みこんだのは、子供のように喧嘩をしにここまでやってきたわけではないからだ。原田は深呼吸して少し落ち着くと、林檎を最後まで剥き終えた。そのタイミングを見計らったかのように、原田の携帯電話が振動を伝える。この病棟は電波が入っても大丈夫だと予め聞いておいたが、有事の際には電話が使えないと困る職業なので、病院側にもお伺いを立てておいた。案の定、着信がある。 「悪い、ちょっと待ってろ」 原田は沖田へ切った林檎を乗せた皿を押しつけると、部屋を出た。携帯電話のディスプレイを確認する。相手は山南だった。火急の用件かと緊張した面持ちで原田は通話ボタンを押した。 『もしもし、原田くんですか? 電話に出られるということは、無事に病院についたようですね』 「ああ、どうかしたのか?」 『いいえ、ただ沖田君の調子はどうかと聞きたかっただけですよ』 山南の声音は朗らかだ。どうやら火急の用件ではなかったらしい。そのことに安堵しながら原田は張り詰めていた息を吐いた。 「相変わらず元気そうだよ。質の悪い冗談言えるくらいにはな」 『沖田君らしいですね。そういえばこの間電話で話した時も、雪村君のことを知らないと言ってましたが』 「総司の奴、その冗談山南さんにも言ってたのかよ。冗談通じる相手は選べってんだ。今日もまた俺に千鶴のことを知らないって言ってるぜ。しかも担いでるつもりなのかときた」 笑い話として処理するつもりでそういうと、電話口の山南は黙りこんでしまった。 「おい、山南さんどうした?」 『原田君にも、同じことを言ったんですか?』 「あ? 千鶴のことを知らないって奴か?」 『そうです。……おかしいですね、私も冗談で済まそうと思ってましたが、こんな意味のない嘘を誰にでも言うものでしょうか』 「そりゃまあ、総司だからこういうことはあるだろうけど」 山南が何に訝しんでいるのか解らない原田は、相槌を打ちながら彼の言葉を考える。 「確かに沖田君は過ぎた冗談を言うことはありますが、意味のない冗談は言いませんよ。沖田君が雪村君を知らないと言う冗談を言うには、相手が雪村君本人でないと意味がありません。私や原田君ではないです、なぜなら効果を得るためには本人の耳に入ることが絶対条件ですが、私や君では雪村君本人にそのような冗談を伝えることをしない。彼もそれは解っているはずですよ」 言われて初めて、異常なのかもしれないということに原田も気づいた。沖田はたまに人をわざと怒らせるようなことをするが、基本的に第三者を巻き込む様な怒らせ方をすることはない。一部例外の人間はいるが、一対一でやりとりをする。もし原田に対して同じ冗談を言うのであれば、それは原田に関して知らないということの方が素直に考えられる。 なのに、原田を通して千鶴を傷つけるようなことを言う沖田。 「総司は嘘をついてないってのか……?」 『そうだと断言できるわけではありません。ただその可能性が高いということです』 もしそうであるならば、何故沖田は千鶴を忘れたのだろうか。早急に調査する必要を感じた。 「山南さん、俺ちょっくら総司と話してみるわ。なんかキナ臭さを感じる」 『……そうですね。私の方も少し、調べてみます。彼の病気に何かしらの忘却作用があるとしたら、それは脳にダメージが与えられている可能性もあります』 「脳みそって、それやべーんじゃねーのか?」 『楽観視出来ないのは間違いないですね。では原田君、そちらは頼みますよ』 固くなってしまった山南の声からも察せられるに、決して楽観視できる状況じゃないようだ。千鶴に続いて今度は沖田か、と原田は奥歯を噛みしめた。 「ああ、解った」 なんとか返事を返した携帯電話を切って原田は病室へ戻る。そこには剥いた林檎を一口かじって窓から空を見上げている沖田が居た。 「山南さんだった。お前のこと心配してたみたいで電話かけてきたらしいぜ」 「そうなんだ」 「林檎くわねーのか?」 「食べてるよ、ほら」 と、食べかけの林檎をまた口に放り込んだ。それから、「ねえ左之さん」と原田に話しかける。 「僕って昔からロミオとジュリエット好きじゃなかったんだよね」 それは唐突な話題だった。 「そうだったっけか?」 適当な相槌を打ちながら、原田は沖田の話に注視する。これが嘘か否かを判断出来るのは、今は原田しかいないのだ。そんな原田の視線には気づかないで、沖田は考え込むように話し続ける。 「うん、話の展開がすごく嫌いで、運命だっていいながら全部諦めちゃうでしょ。そんな運命なんて得体のしれないもののせいにして、生きることに絶望するなんて僕は嫌だったんだ」 「まーそうだな、どうせだったら自分の力で掴み取っていきたいよな」 「なのに、この間ロミオとジュリエットを読んだんだ」 「へえ?」 「なんでかわからないけど、急に読みたくなってさ。どうしてなんだろう」 「そりゃお前、何か作品に対して印象変わることでもあったからじゃねぇか?」 けらけら笑うと、沖田は更に考え込んでしまった。 「そうかもしれない。何か大切なことがあった気がするんだけど、覚えてなくて」 沖田のそのセリフは嘘ではなかった。少なくとも今まで原田が付き合ってきた中でも、沖田の言葉で信用性が高い響きを持っていた。 もし、ロミオとジュリエットの話が千鶴に関係することだったら、そのせいで記憶が無くなってしまっているのだとしたら、沖田は完全に千鶴のことを忘れている。 「総司、お前好きな子とか居ないのか?」 原田が尋ねると、沖田はおっかなびっくりといった表情をした後に、苦笑した。 「病院の中で恋が芽生えるとでも?左之さんさすがにドラマじゃないから、そんなの無理だって。それに、別に僕好きな人とかいらないし、今はとにかく近藤さんの役に立ちたいんだ」 以前の沖田にしても、似たような回答はしただろう。しかし、沖田はそれがイエスであるならば否定も肯定もしない人間だ。つまり、それが答えだった。 「そ…っか、だよな」 「女の子じゃないんだし、僕に恋バナとか求められても出来ないよ。第一男二人でそれも気持ち悪いし」 「おいおい、気持ち悪いはねぇだろ。俺は心配して言ってるんだよ」 原田は内心を悟られないように、冗談として流した。本当は動揺して、正常な判断を出来なくなっていそうな己を必死に叱咤していたのだが。 「そんな心配だったら、平助にしてあげたら? 平助女の子に面識ないんだし、まともな恋が出来るか解らないよ。早く好きな子でも作ればいいのにね」 沖田にとっては何気ないおそらく、いつもと同じ会話のつもりだったのだろう。だが、原田にとってはいつもではない。異質この上ない。平助が誰を好きなのか、沖田だって知っていたはずだ。平助がどんなふうに恋をしていたのか、間近で見ていたら解るはずだ。 「お前、本当に忘れちまったんだな……」 沖田が不愉快そうな顔つきになる。 「またさっきの話? だから、僕は身に覚えがないってば」 「あー……いや、何でもねえ」 沖田からしてみれば、身に覚えのないことで責められている気になるのかもしれない。刺激をしない方が良いのか、どうしたらいいのか医者ではない原田には解らないのだ。だから、今ここで無理やり思い出させようとするのは、もしかしたらよくないのかもしれない。それこそ、原田が判断することではない。否、してはいけない。 「他の奴らにもなるべく顔出すように言っとくな。お前暇だろ?」 「退屈過ぎて飽き飽きだよ」 肩を竦める沖田はどこからどう見ても前と何も変わらないのに、彼の中には共有できる思い出がごっそりと抜けてしまっている。傍目から見ると変わらないのが、原田に取って戸惑わせる原因だ。 千鶴のことがあるだけに、今は負担を抱えさせるわけにはいかないが、土方に報告をすべきだろうか。おそらくはするべきだ、土方にとっての沖田は弟弟子であることに変わりない。 まずは山南と話す。沖田と話せば話すほど、原田の中での違和感は膨れあがってゆく。不自然なほどの記憶の抹消。千鶴と一緒に生活していたのだから、彼女の記憶をごっそり抜いたら、相当な矛盾がでるはずなのに、沖田はそこをすり替えたように何かで補っているようだった。 普通じゃなかった。こんな状態が普通なわけがない。 歯噛みする思いで原田は病院を後にした。バイクを走らせながら、目指すは家だ。 数週間前までは、皆で笑っていられたのだ。それが、どうして今こうなってしまったのか。 原田自身、病室で沖田がいっていた運命論なんてものは信じたくはないが、運命のいたずらのせいにはしてしまいたいほど、状況が刻々と悪化している。 → 20120108 七夜月 |