兄妹



 玄関を開けて部屋に戻ってきたら、ここ最近ずっとあった光景が消えていた。
 笑うことをしない、ただの人形が座っていたソファ。
 人形になることを望んだのは千鶴だった。壊れることを、壊すことを恐れて殻に閉じこもった。
 薫はそれでもいいと思っていた。
 ただそこに、千鶴さえ居てくれれば。
 薫が持っていた鞄が音を立てて落ちた。
「…………千鶴?」
 カーテンが風に揺れて翻る、その部屋の中には誰もいなかった。


「お久しぶりです、土方さん」
 病院で土方と対面したときに、言いようのない罪悪感がこみ上げた千鶴。それでも、俯くことだけはせずに、ちゃんと土方の目を見て話をした。土方から目をそらしてはいけない、自分が犯した罪の重さはどんなに重くても背負わなければならない。罪から逃げることは、あの部屋に入る前の自分に逆戻りになってしまう。
 千鶴が戻ってきたのは罪を認めて、すべてを明かすためだ。
「ずいぶん、やつれたな」
 土方は痛ましそうに千鶴に向かって手を伸ばした。だが、その手を伸ばしきる前に押しとどめるように自分の足の上で握る。
「覚悟をしてきたのか?」
「はい、今度こそすべての決着をつけます」
 千鶴が居なくなったことに気づいた薫が何をするかわからない。もしかしたらここを襲うかもしれない。道場を襲うかもしれない。沖田がいる病院を狙うかもしれない。
 だから早急に様々なことに決着を付けなければならないのだ。
 今夜で全てが終わるだろう。
「俺も、痛みがねえとは言わねーが、ちゃんと動ける」
 一番危険を孕んでいるのは土方だ。だから、今日土方はこの病院から居なくなる。退院の許可は降りていない。一応提出した外出許可を破るつもりでこの病院を出るのだ。
 向かうは道場、今土方を一人にさせておくことは出来ない。
 こんな無理を強いることになって心がまた痛むけれど、それでも千鶴は手を差し出した。
「力を貸してください、土方さん」
 いつも土方に頼ってばかりだった。最初はすごく怖かったけれど、彼が本当の意味で強い人だと知ったから、千鶴は挫けることなく彼を尊敬し、道場に残れた。
 またこうやって千鶴は迷惑をかけてしまう。それでも、一人じゃどうにもできないから、だから、土方と…そして道場のみんなの力を借りたい。
 千鶴の願いを受けて、土方はその手を掴んだ。
「ああ、当たり前だ」
 頼もしいまでの土方の言葉に、千鶴は幾日かぶりに自然に笑うことが出来た。

 一方ではその頃、道場の門を叩く人物がいた。
「はいはーい、どちら様ですかー?」
 応対したのは新八。ちょうど勤務が終わったところだ。彼以外、今この家には誰も残っていなかった。斎藤と平助、そして原田はもうすぐ帰ってくるという連絡があったが、それまではこの家に一人。必然的に応対するのも新八な訳だが、玄関を開けるとそこにいたのは新八の見知らぬ初老の男性だった。
「えーっと、どちらさん?」
 気さくに声をかけながら、それでも内心警戒を怠らずに問うと、男性は頭を下げた。
「初めまして、雪村千鶴の父で、雪村綱道と申します」
「……へっ!?」
「娘に会いにきました。千鶴はこちらにいらっしゃいますか」
 まさか雪村綱道が訪ねてくると思いだにしなかった新八は、あんぐりと口を開けてまじまじと綱道を見てしまった。


 ふらふらと病院内を散歩していた沖田は、病院の中庭に出た。ずっと心にしこりが残ったまま、何か忘れているような、そんな気持ち悪さが頭に残っている。
 どうしてこんなに気持ち悪いのか。無理やり蓋をしたようなそんな圧力を感じるからより一層不快であった。何かに縛られるのは嫌だ、自由気ままな猫のように生きていたい。自分が誰かに囚われるなんてそんなことはあって欲しくない。沖田が生きる理由は近藤のためだけだ。それ以外はいらない。
「なんなんだ、一体……!!」
 さよならが消えない。ずっと心の中で回り続けるのは、文字とも声ともつかないさよなら。
 まるでなにか、とても大切なことを忘れているようなそんな気がして。
 このことを考えていると、頭が真っ白になる。だから、気のせいだと思っても、すぐにむくむくとふくれあがるのだ。まるで思い出させないようにと、頭に靄がかかる。
 嫌な感じだった。
 沖田は首を振って歩き続ける。沖田が何かを忘れてしまっていることは、左之助の様子からも感じ取れることだった。あの噛み合わなかった会話。沖田が何かを忘れてしまっていることに、ひどく不快な様子だった。冗談で済ませるべきことではないと憤慨していた。つまり、それほど大事なことなのだ。沖田が今忘れてしまっている何かは、沖田にとってもすごく大事なことなのだ。
 クソ、と悪態をつきたいのを堪えて、沖田はベンチに座った。初めて、何か忘れてしまった気がしたのは、ちょうどこのベンチに座ってうたた寝をしてしまった時だ。
 またここで眠ったら思い出せるだろうか。と一瞬そんな考えが過ぎるが、すぐに自分で否定した。眠れば眠るだけ、忘れる度合いが深くなっていった気がしたのだ。何かを忘れているという感覚がなくなっていったという方が正しいだろうか。だったら、眠ることになんの意味もない。
 沖田が霧散する思考を必死に拾い集めたまましばらくそこに座っていると、いつの間にか目の前に小さな女の子がいた。最初は入院している子かと思ったが、その子は私服である。パジャマなどではない。
「お兄ちゃん具合悪いの?」
 小学生の中学年だろうか、彼女はどうやら沖田を心配してくれているようだった。子供は嫌いではない、だから沖田は作り笑いを浮かべるとその子の頭を撫でた。
「いや、平気だよ。ちょっと、考え事してたんだ」
「そうなの、お兄ちゃんソウちゃんと同じ顔してるからどこか痛いのかと思った」
「ソウちゃん?」
「ここに入院している子、友達なの! ソウちゃん男の子のくせにいつも痛がって泣いてばかりだから、私がついててあげなきゃダメなの」
 その子の笑顔には花があった。見ていて落ち着く、似たような笑顔をつい最近まで見ていたようなそんな錯覚すら生まれて、沖田は微笑んだ。
「へえ、そうなんだ」
「ソウちゃんもうすぐ手術するんだって。死んじゃうかもしれないから、本当はソウちゃんのおばさんにここに来ちゃダメって言われてるの」
「どうして?」
 少し驚いて沖田が尋ねると、女の子は笑った。
「私にもうつる病気かもしれないから、私も死んじゃうかもしれないから。でも、私ソウちゃんの友達だから、会えないけれどソウちゃん頑張ってるの知ってるから、せめて元気になるようにって」
 少女の手の中には、野に咲いている花々が収められていた。不格好にまとめられたそれは、シロツメクサであった。
 これを毎日その病室へ届けているのだという。だが、おそらく彼のもとにたどり着く前に処分されているだろう。手術を目前とした患者の前に、花等のどのような菌がついているかわからないものを病室へいれるハズがない。だが、少女はそんなことを露知らず、花を送り続けているのだろう。
「君は、優しいね」
 届かない花を毎日送り続ける。その行動は滑稽ですらあるのに、心が少しだけ温かくなった気がして沖田がそういうと、女の子は照れたように笑った。そしてシロツメクサを一本抜くと、それを沖田に手渡した。
「お兄ちゃんも元気になるように、これあげるね!」
 驚いたが少女の好意は嬉しい、ありがたく受け取ると、女の子は嬉しそうに笑った。
 もし、この少女は自分の花が届かないことを知ったらどうするのだろうか。
「ねえ、もしだよ? 君のこの花がソウちゃんに届かなかったらどうするの?」
 こんなこと、聞くべきではない。口に出してすぐ後悔したが、女の子はきょとんとした後に少し考え込む。
「うーん、でもやっぱり明日も摘みに行くよ。ソウちゃん、お花好きだから。例えばソウちゃんの病気がうつって、私が死んじゃうかもしれなくても、ソウちゃんが観たいって言ったらお花届けてあげるの」
「自分が死ぬのは怖くないの?」
「だって約束したもの、ソウちゃんが寂しい時はそばにいるって。たとえ一緒に遊べなくても、私もソウちゃんと一緒にいたいから」
 こんなにも死に恐怖をもたないのは、子供だからだろうか?
 価値がないと分かっていても、そばにいたいなんて子供の理屈だ。沖田は羨ましく思った。近藤の役に立てない自分なんて今は価値もない同然だ。

 ―剣が扱えようが関係なく、沖田さんには居てほしいと思ってます。

「え……」
 価値なんて何もない、そう思ってたはずなのに、今聞こえてきた声は沖田の存在そのものを肯定するものだった。これを言ったのは誰だ?わからない。
 突然、沖田の視界が歪んで、声が形となって目前を駆け抜ける。
『そんなことないと思います』
『だって、近藤さんを見ていたらわかります。ううん、近藤さんだけじゃなくて、ここにいる人たちを見ていたら、沖田さんのことを想っているのがわかるから』
『だって、私がそう思っているんです。だから、他の人たちだって同じです。同じに決まってます』
『ただ、そうですね。ロミオに出会えたのは羨ましいなと思います。その人を追ってもいいと思えるほどに、好きな相手だったということなんでしょうから』
『追いません。……ううん、たぶん追えません。私は、仮にも医者の娘ですから。命を投げることは何があっても出来ないと思います』
『私はちゃんと聞きます。沖田さんの話、笑ったりしません。だからもし何かあるなら、話してください』
『はい、じゃあ待ってます! 沖田さんが言ってくれるのを、私待ってますね!』

 意味のわからない言葉の羅列に、沖田は目眩をおぼえた。
「お兄ちゃん?」
 心配するような少女の声、それに大丈夫と言おうとして、もたらされた頭痛に頭を抱えた。悲鳴をあげたくなるような激痛、こんなのは初めてだった。
 思わず受け取ったシロツメクサの茎を握りつぶす。汁が漏れて沖田の手のひらを汚した。
「ごめんね、せっかく貰ったのに……」
「そんなのいいよ、それよりお医者さん呼ばなきゃ!」
 痛みを隠すことができずにとぎれとぎれになった言葉、沖田を心配した少女が立ち去ろうとしたところを、沖田はその手を掴んで止めた。
「待って、少し休めば治るから。だから先生を呼びにいかないで欲しいんだ」
「でも……!」
「本当に大丈夫だよ、そうだ。どうしてシロツメクサを君はもっていってるの?」
 今何かを思い出しかけてるのであれば、この痛みに横槍が入ったら何も思い出せなくなるかもしれない。それを恐れた沖田は、話題をそらさねばと思ってそう少女に訪ねた。
「シロツメクサは、約束の証だから」
「約束の証?」
「ソウちゃんが教えてくれたの、シロツメクサの花ことばは『約束』。手術に成功して帰ってきたらまた一緒に遊ぼうねって、そういう約束したの。だから、私約束ちゃんと覚えてるよって、話すことができないから、お花で伝えてるの」
 約束、と頭の中で沖田が反芻すると、再び目の前が暗くなった。
 何か大事な約束をした気がする。それはとても大事なもので、決して忘れてはいけないものだった。

『千鶴ちゃん、一つだけ約束して欲しいことがあるんだ』
『なんでしょうか?』
『僕がまたここに帰ってきたら、君は笑っておかえりなさいって言って。君の居場所はここだよ、正直自分の手で守れないのは悔しいけど、君のことはここにいる人たちが絶対守るから。僕も、さっさと治して戻ってくるから、そうしたら、君は笑って僕を出迎えて』
『はい、お約束します』

『沖田さん』

 靄が晴れた。
 暗かった視界に、女の子が現れる。沖田のよく知る、女の子。
 沖田が好きになった、大切な女の子。  
 瞼の裏で、彼女はずっと笑っていたはずだったのに、さよならを告げた時の彼女はどんな顔をしていた。
 ああ、なんということだろうか。何故こんな大事なことを忘れていたんだろうか。
「お兄ちゃん、本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。君のおかげでとても大事なことを思い出すことが出来たんだ。ありがとう」
「大事なこと?」
「僕も、約束をしたんだ。とっても大事な約束」
 忘れてはいけない約束だった。彼女をあんなふうに悲しませたくなんてなかったのに、沖田は忘れてしまったのだ。
 どうして松本がここにいる?
 彼は戻ったはずだ、沖田が住んでいたあの街に。
 何故今まで疑問に思わなかった?
 どうして今まで忘れていられた。
 彼女のことを、忘れられるはずがなかったのに。
 泣きたくなったのを寸でのところで止められたのは、一人でいなかったからだ。忘れてしまうことがこんなに怖いことだとは思わなかった。彼女は、そんな気持ちを味わっていたのだろうか。
 自分が知らない物事があるという恐怖も大きかった。
 もし忘れるきっかけを与えられたとしたら、あの、赤い薬だ。沖田はそれ以外に思いつかない。寝ているときに何かしらされたかもしれないが、赤い薬を強くしてから、一気に忘却が進んだ。 
 ここに居てはいけない、思い出したら様々なことが蘇った。
 松本の怪しい行動、そして病院をうろつく変な奴ら。
「沖田君、こんなところにいたのか。部屋に居ないから探してしまったよ」
 今、自分に声をかけるこの医師が、どんな思惑を持っているのかは知らない。けれども、自分から彼女を奪い去ろうとした。それは、沖田の中で絶対に許せることではなかった。
「松本先生、僕が飲んでるあの薬、何か秘密がありますよね?」
 穏やかに語りかけたつもりではあった。だが、少女がびくりと肩を揺らしながら後退した。そこから察するに、今自分がどれだけ殺気を放っているか、己では制御できないくらい沖田の中で怒りは増幅されている。
 そんな沖田の怒りも分かったのだろう、松本は一定の距離から近づこうとしなかった。
「君はもう、行った方がいい」
 少女の背中を軽く押すと、怖いながらも沖田が心配だったらしい少女は何度か振り返った。だが、結局は花を届けるために病院の中へ入っていった。
 願わくば、あの心優しい少女の約束が守られればいい。
 少女を見送った沖田は松本に氷のような眼差しを向ける。
「一体、何の話だ」
「とぼけないでくださいよ、ようやく思い出せました。ずっと変だなと思っていたんです。見舞いに来てくれた左之さんとも話が合わないし、何か大事なことを忘れてしまったような、そんな気がしていました」
「思い出した、とは?」
「決まってるじゃないですか、千鶴ちゃんのことですよ」
 沖田がそう言うと、松本の顔色が少し変わった。その変化を当然沖田は見逃さない。握った拳に力が入り、より強く爪が手のひらへ食い込んだ。
「どうして僕から千鶴ちゃんの記憶を奪ったんですか?」
「…………それは、どういう意味だ?」
「まだしらばっくれるつもりなんですか、だったらはっきり言いますよ。あの赤い薬を使うことで、何かしら僕の記憶に作用させたんでしょう。千鶴ちゃんの記憶が残らないように、あんたたちが操作した」
「それは、違う」
 沖田が告げた言葉に、松本ははっきりと違うと言った。
「何が違うんですか、だったら説明してくださいよ。あんたたちは、一体何をしているんだ! 綱道さんのことと、今回のこと関係あるのか!」
「それは是非とも、お聞かせ願いたいものですね」
 松本が何か言おうとした時、松本の後ろからも声がかかった。そこにいたのは山南だ。
「迎えにきましたよ、沖田君。さあ、病院からでましょう。ここにいたら、君は殺されるかもしれない」
「山南さん?」
 山南の登場に沖田は驚いたが、松本は知っていたかのように冷静に深いため息をついた。
「君たちが周囲を嗅ぎ回っていたのは知っていたよ、しかし想像以上に早かったな」
「お褒めに預り恐縮ですよ。松本先生、彼の質問に答えてください。いえ、私が尋ねましょう」
 山南は一度深呼吸すると、その言葉をためらわずに一言で言い切った。
「沖田君が飲んでいた赤い薬というのは変若水ですね?」


 





   20120108  七夜月

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