兄妹



 千鶴が土方と連れ立って病院を出たのは夕方であった。それから千鶴が泊まる場所はその他の人間が行く場所、そして道場をどうするかで話し合おうとしていた矢先に、その連絡はやってきた。
「もしもし、ああ、斎藤かどうした……おい、何があったんだ?」
 電話先は非常に混乱しているらしく、どうも様子がおかしい。
「おい、おい!」
 電話は用件を伝える間もなく切れた。電話口の向こうでは、大きな物音がしていた。そして、発砲するような音も。斎藤からの連絡が危機を知らせて土方に危険を促しているのは明らかだった。
「俺は道場へ向かう。お前はここにいろ」
「一緒に行きます」
「お前じゃ足でまといだ!ただでさえ俺は動けねえってのに、お前まで守る余裕なんざねえよ!」
「わかってます、そんなの! でも、きっとそこには薫がいる、薫はきっと他の誰にも止められない、薫を止められるのは私しか居ないんです!」
 足でまといというのは十分把握していた。だが、血を分けた兄弟だからなのか、薫を止められるというのは自分だけであると、千鶴は感じていた。それは思いあがりかもしれない、だがそうでもしないと、薫はきっと止められない。死ぬまで止まらないのだ。彼の気性は今までの行動からわかっている。一度手に入れたものがなくなったら、きっと容赦しないだろう。彼が誰かを殺してしまう前に、千鶴が間に入らなければならない。
「土方さんごめんなさい、馬鹿なこと言ってるのはわかってます。でも、嫌だって行っても付いていきますから」
「……くそ、絶対に無茶すんなよ。危なくなったらすぐ逃げろ!」
 土方の体は万全ではない、一緒に歩いてはいるものの、衰えてしまった筋肉からその様子がすぐにもわかるし、千鶴はただの邪魔にしかならないだろう。土方が自分自身を守れるかどうかも怪しい。だから、今度こそ千鶴が彼らを守る。
 呼んでいたタクシーに乗り込んで、道場へ向かう。その間祈るような気持ちでただ千鶴は天に願っていた。誰かが傷つかないように、もう誰も傷つけられないように。
 道場へたどり着くと、煙らしきものが屋敷から上がっていた。火事だ、いてもたっても居られずに、彼らは火の手が上がっている方へ向かった。燃えていたのは道場だ。まだ全焼には至っていない、道場の奥に火の手が上がっている。
 千鶴はその光景に思わず立ち竦んだ。足が縫いつけられたように動かない。
 火が燃えていた、千鶴の目の前でまるで何もかも飲み込むように。
「いや、いや……」
 燃えている火から、目が離せなくなる。千鶴の意識は真っ白になり、それから真っ赤に染まった。
「おい、どうした?」
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
 その声に土方は固まってしまった千鶴の前に庇うように立ち塞がった。声をかけたのは風間だった。
「綱道がここに来たという情報を受けて来てみれば、やりあった形跡が残っているだけときた」
 パッと見ただけだと気付かなかったが、そこらへんに倒れてるのは紛れも無くこの間戦闘を仕掛けて来た奴らだった。中の様子を早く確認しないことには斎藤や平助たちの安否が気がかりである。
「俺は俺のしたいようにする。だが、それにはやはりお前たちは邪魔だな。土方、ここで決着をつける」
「ふざけんな、んなことしてる場合じゃねぇんだよ」
「ほう、逃げる気か?」
 逃げるかと問われたら逃げる訳がない。その言葉に眉根を上げた土方は、目の前に投げられた木刀に視線を移した。
「俺も以前、剣を嗜んだことがある。ここは一つお相手願おうか」
 剣を嗜んだ程度の人間とやりあう時間などひとつもない。それこそが、土方に対する風間の挑発であった。わかりやすい挑発であったにもかかわらず、土方は乗ってやることにした。ここにいる風間を倒さなければ前に進むことはできない。冷静に判断して誤った結果を生み出したこの間が胸に蘇る。どうせだったら、馬鹿と言われようが自分が納得した結果を出したい。そう、土方は今この男の挑発に乗りたかったのだ、ずっと気に食わなかったこの相手と決着をつけることを。
「ああ、わかった」
 投げられた木刀を手に、構える。千鶴に下がってろと、彼女の肩に触れたとき、ガクガクと体が震えているのを感じられた。それから怯えている様子なのも気になる。
「おい?」
「父様……母様……! だめ…燃え…ちゃう!」
 カクリと人形のように首をもたげさせた千鶴は意思のない瞳で顔をあげた。
「ダメぇええええ!!」
 絶叫したと思ったら、千鶴は一目散に燃えている道場の中へと入っていく。明らかに普通ではない千鶴の様子に、当然土方の意識は向けられた。
「千鶴っ!」
 追いかけようとした土方の前に、風間の剣先が掠る。
「逃げるつもりではあるまいな?」
 どうあっても逃がさないつもりらしい風間に舌打ちしながら、土方は振りおろされた木刀を剣の腹で受け止めた。
「逃げねえよ、今度こそ俺は、あいつを守るんだからなっ!」
 久しぶりに手にした剣の感触、確かに今の土方は万全ではないが、闘志だけは決して殺した覚えなどない。腹に気合を溜め込むように深く息を吸うと、雄叫びような声を上げて、剣を握り締めて風間に突進した。
「その調子だ三下、相手をしてやろう」
 どこまでも上目線の風間、土方はその風間から目を離さないではいたが、一瞬だけ家の方から怪しい奴らが出てくるのが見えた、それを追いかけるように走る原田と新八。彼らがいるならあちらは大丈夫だろう、そう踏んで土方の視線はがっちりと風間へ固定された。

 赤く爆ぜる炎、道場の中の温度は上がり続けている。熱いと感じながらも平助と斎藤は後ろにいた綱道を庇うように薫を睨みつけていた。
 このままでは、焼け落ちた家屋に踏み潰されて死んでしまう。だが、ここから出るには、目の前にいる薫をなんとかしなければならない。外の様子はどうなっているだろう。原田と新八ならきっと外にいる奴らを蹴散らしてくれているはずだ。
「大人しくそいつを渡してくれないかな?」
 外の心配は正直していない。だが、目の前にいる薫だけは油断ならない相手だった。彼の目は狂気に駆られている。普通でないのは一目見たらすぐに分かった。彼の何がここまでさせるのかはわからない。
「もういいんだ、君たちだけでも逃げてくれ。私と一緒にこの場で死ぬつもりか!?」
「んな訳ねーだろ!だけど、あんたが死んだら千鶴は悲しむ!それに、一度守るっていったのに今更逃げるなんてかっこ悪い真似出来るわけねーだろ!」
 中に残っているほかの人間も後退しながら平助たちの様子を伺っている。
 平助と斎藤に残された時間は短い。どうにかしてこの場を切り抜けなければ、間違いなく死んでしまう。斎藤の方を見ると、苦渋の表情で襲いかかってくる敵を切り伏せている。木刀は当たるだけでかなりの衝撃を有する。いくら相手が装備を厳重にしていたとしても、完全に何もなかったようにはできないのだ。怪我に到らずとも、動きを止めることはできる。
 ゆっくりと歩きだした薫、その距離が徐々に縮まり、じりじりと後退できる位置ももはやない。そんな時、両脇から一斉に襲いかかられて、平助と斎藤は一瞬意識が綱道から離れる。
「全部、あんたが悪いんだ。あんたなんて居なければ良かった」
「綱道さん!」
 薫は何の感情もない声音でそう言うと、静かに短刀を抜いた。それは、千鶴が受け取った、雪村家に代々伝わる脇差であった。千鶴の部屋の中を漁ったのかもしれない。本来持つはずの相手に手渡ったのだから、喜ぶべき場面だろうが今は状況が最悪だった。あの脇差は本物だ。人の命を奪うことができる。平助は相手を切り伏せながら、綱道の名を叫ぶ。
「薫……」
「どうして俺から千鶴を奪ったんだ。千鶴さえいれば、俺は良かったのに」
「……お前に殺されるのであれば、或いは正しいのかもしれないな」
「綱道さん、何言ってんだよ!」
 木刀がぶつかる鈍い音を発しながら、平助は綱道へ声をかける。
「そんなことをしたら、千鶴が悲しむのがわからないのですか!」
 斎藤も荒い息を吐きながら、綱道を叱咤する。だが、綱道は首を横に振った。
「君たちに甘えてここまで来てしまったが、私は千鶴に別れを告げにきたんだ」
「えっ」
 道場の中に、女のものである声が響いた。千鶴だった。ずっと会いたかった父の、信じたくないセリフに千鶴は冷水を浴びせられたように冷静さを取り戻した。
「父さん、どういうことなの……?」
 千鶴の静かな問いかけに、綱道はまっすぐに自分の娘を見る。 
「千鶴、今まですまなかった。お前は変若水にずっと苦しめられてきた、私がお前に変若水を飲ませたばかりに、お前を不幸にしたのだ」
 衝撃がなかったとは言わない、自分があの薬を飲んだということは、化け物になるということだ。人間ではない、ただの異形な存在に。
「どういうこと、なの……だったら私はもうすぐ、死ぬの?」
 膝をついた千鶴はそれでも意識だけはしっかり保とうと首を振った。
「お前は死なないよ、千鶴。父さんが死なせない」
「だって、変若水を飲んだんでしょう? 私、知ってるよ、変若水を飲んだ人がどうなったのか、だったら……!」
「……お前だけだった、他の人間には皆効くことがなかった変若水を完全に自分の中に取り込めたのは。お前は成功だったんだ」
 一体綱道が何を言っているのかがわからない。言葉が日本語に聞こえない、自分が成功体?それはつまり、どういうことなのだ。
「父さん、意味がわからないよ。ちゃんと説明して」
 千鶴は綱道を見ながら、そして薫を見た。薫の表情は先程に比べれば人間らしい機微が戻ってきているように感じられた。千鶴の存在によるものなのかはわからない、だがその動きが止まったのは確かである。
「あれはお前が、3歳になる頃だった。生まれた時からお前は身体が弱かった。いつも熱を出してしまうような子で、ある日検診に来ていた病院で流行病にかかったんだ」
 その流行病は乳児にかかると二割の確率で死に至る病だった。健康体であれば、きちんと治せば死ぬことはない。だが、元々身体の弱かった千鶴は、その二割だって危ない。いつも死と隣り合わせの子供であった。
 案の定、病により危篤になった千鶴は綱道のいる病院まで連れてこられた。もちろん、その時にできる最新の医療技術で最善の努力は施した。だが、千鶴の小さな身体では峠を超えることが出来なかったのである。心肺が停止し、一度完全に死んだ千鶴を死なせるものかと、綱道は実験中であった変若水を千鶴に飲ませた。結果、千鶴は息を吹替えした。
「お前は生き返った。だが、完成途中の薬は完全ではなかった」
 それから千鶴が狂うことのないように、変若水を飲ませ続けることになった。一度飲ませた変若水の効果が切れると、千鶴は決まって苦しんだ。変若水はまるで麻薬だった、千鶴の身体を思えば止めさせなければならないのに、止めさせたら千鶴は狂ってしまう。その可能性が高いと分かっていて、やめさせることなど綱道にはできなかった。
「そんな時に、12年前の事件が起こった。お前はもう、気づいているのだろう。私がお前の本当の父親ではないということを」
 その言葉は、まさかを確信にさせた。千鶴は声が震えて出ずに、ただ首を動かして綱道に肯定する。
「あの事件は、唯一完成体となったお前を狙った者たちによる事件だった」
 何を。
 何を言っているんだろうか。
 父は今、何を言ったのだ。
「どこで嗅ぎつけたのかは知らない。だが、私とチームを組んでいたものたちが、私が完成した薬を独り占めしているのではと危惧して、また各々で変若水を完成させるために、サンプルとして千鶴を狙った」
「私…を……?」
 千鶴は愕然としたように呟いた。
 それでは、両親が死んだのは千鶴のせいだと言うのだろうか。ああ、いや、そうなのだ。両親だけじゃない、あの事件で亡くなった人たちは皆、千鶴のせいで死んだ。
「お前のせいではない、全ては私が引き起こしたことだ」
 綱道ははっきりとそう言った。その口ぶりからしても、綱道が一人でその罪を背負ってきたのははっきりとわかった。また頭の中に罪の意識でいっぱいになるのは、その一言で避けられた。今はそんなことを感じている場合ではない。罪の意識はすべてが終わってから償うしかないのだから。
「だから、私は完成させなければならなかった」
 綱道ははっきりとそう呟いた。
「未だに薬に未練のある連中を欺いて、彼らより先に変若水を完成させなければならなかった。いや、もうそれは変若水ではないな。お前の身体を変若水を必要としない身体へ戻す薬だ。変若水などではない」
 それは一度使いきりの、変若水でなくてはならない。中毒性があるものでは意味がないからだ。そして千鶴のためだけの薬。おそらくほかの人間に使っても、よしんば病気の進行を遅らせることが出来る程度。だが、悪い方へ作用することが多い薬になるだろう。この薬は変若水を一度身体にいれたものを前提としているのだ。毒をもって毒を制す、毒性が高いものに投与するのだから、それを上回るような毒を入れるようなものだ。
「私は松本に頼んで研究を続けた。お前を生かすためにはこれしかなかった……そして、とうとう見つかった」
「見つかったって……風間さん?」
「……ああ、そうだ。だが、風間君には遅かれ早かれ見つかるとは思っていた。彼は千鶴のことを好いていたからね。だから、彼に見つかったから問題なのではない。大きな組織であればあるほど、情報が上に到達するまでに必ず漏洩する穴がある。お前を狙った者たちが、お前の存在に気づかぬ筈はないのだ」
 つまり風間が知ったということは、それが他の人たちにも知れ渡ったかもしれないということだった。風間の言葉を仮に信じるとして、千鶴が風間の婚約者であったというのなら、風間の動向を見張る人間がいたとしてもおかしくはない。
「私はもう、時間がないことを悟った。このまま見つかれば千鶴は連れて行かれてしまう。だから、私はお前をここに寄越したんだ」
「……え?」
「ここには、お前を物理的に守ってくれる人間が大勢いる。近藤君に口止めをして、それから直々に頼み込んだ」
 そんなまさか、と千鶴は驚いた。千鶴がこの道場へきたのは偶然だったはずだ。偶然、土方と沖田と斎藤に助けられて、この場所へやってきたのではないか。
「確かに、お前がまさか自主的にこちらへ来るとは思ってなかったからそれは誤算だった。本来であれば松本を介してこちらの道場へ来てもらう手はずになっていたからな。だが、お前は私が手をださずとも、お前の意思でこの道場へやってきた」
 近藤は綱道に何も言わずに笑顔で了承してくれたらしい。道場の人間を危険に巻き込むかもしれない可能性が、容易に思いついたであろうに、彼は困っている人間を助けたいからという理由だけで、千鶴を保護してくれた。
「近藤君が狙われたのも、私のせいだ。私が彼を巻き込まなければ、近藤君の事故は起きなかった」
 千鶴にはもう何も言えなかった。綱道が犯した罪によって、千鶴という罪が生まれた。罪は償うことができずに、新たな悲劇を生み出すだけでしかない。薫が言ったことは、当たらずも遠からずということだったのだ。
「だが、どれだけ周囲を巻き込んでも。私は弟たちが残したお前を守りたかったんだ。同じく生き残った薫と一緒に、再びこの世界で笑って生きていくところを見たかった」
 その言葉に、薫の肩がピクリと動く。
 それに気づかずに綱道はゆっくりと歩きだした。それから千鶴の手に、小さな瓶を手渡す。赤い液体がが中には入っていた。真紅の液体はまるで血のように揺らめく。
「すまない、千鶴。お前には謝っても謝りきれないな」
 千鶴の頭に手を置いて撫でる綱道。
「最期まで私はお前を悲しませる」
 その言葉はまるでお別れをしにきたという綱道の言葉を彷彿とさせて千鶴は顔を上げた。
「どういうことなの……?」
「私はもう、長くないんだよ」
「え?」
「末期の胃ガンなんだ。もう肺にも転移している、取り除くことは出来ない」


 





   20120108  七夜月

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