バレンタイン 1 型に流して固めていたチョコレート、幾つものハート型がころころと転がるように、包装紙の中へと吸い込まれていく。 きゅっと赤いリボンで口を締めればラッピングした本命チョコの出来上がりだ。珠紀を主人とするオサキ狐はそれを見つめながら、欲しいな、と言わんばかりに珠紀の足元でくるくると回る。 「おーちゃんダメだよ、これはおーちゃんにはあげられないの。代わりにこっちをあげるね」 そしてオサキ狐用に作った小さなチョコレートをオサキ狐の頭にちょこんと乗せた。 そんな折、ひょっこりと台所に姿を見せたのは美鶴だった。 「珠紀様、ご準備は整いましたか?」 「あ、うん! 美鶴ちゃんごめんね、ありがとう」 台所は言わば美鶴の聖域。そんな聖域を忙しい朝の最中に独占させてもらって、こうしてバレンタインという日を迎えた。 チョコは昨日の夜に作ったものだ。味見もちゃんとしたし、とりあえず他人に食べさせても問題ない。…という過小評価は「何を仰るのですか、このようなお味のチョコレートこの世に二つと存在しません! 問題ないどころか、このチョコレートを食べる人間は光栄のあまりひれ伏し床を這いつくばるくらいがちょうどいいです! おいしいです、それはもうものすごくおいしいです、味見した私の言葉をどうか信じてください!」という美鶴の鬼気迫る説得のおかげで、だいぶ自信も取り戻せた。 「珠紀様、どうか本日は頑張ってくださいね」 美鶴はにこにこと珠紀の様子を眺めて応援した。 「う、うん。頑張ってくるよ、美鶴ちゃん!」 玄関先まで見送られて、お弁当を渡され(お弁当は美鶴の手作りだ)その意味ありげな美鶴の笑顔に気圧されながらも珠紀は元気よく家を飛び出した。 うー……どうしよう。鞄の中に入っているバレンタインチョコレート、いつ渡そうか。珠紀はそう考えながらも隣で能天気に喋り続ける一つ上の先輩を見た。 「おい、珠紀。俺の話聞いてるか?」 「え?ええ、もちろんです。拓磨とタイヤキは永遠の友達って話ですよね」 「いや、なんの話だよそれ。って、聞いてねえじゃねえか」 「あれ、じゃあ真弘先輩の焼きそばパン好きはクウソノミコからの遺伝っていう話でしたっけ?」 真剣に珠紀が聞き返すと、呆れていた真弘がとうとう声を荒げた。 「あのな! どんだけ昔から焼きそばパンが存在すんだよ! ちっげーだろ、今日のお前から甘いものの匂いがするって話だろうが!」 「あれ、そうでしたっけ?」 ギクリ、と珠紀は確信を突かれて動揺するものの、咄嗟にごまかしてしまう。 「そんなことより、先輩。今日の放課後って空いてます?」 「あ? そりゃまあ、別に予定はないけどよ」 「じゃあ、ちょっと手伝って欲しいことがあるんですよ。教室に来てくれませんか?」 「ああ……わかった」 真弘は珠紀の不審な様子にいささか首をかしげているが、珠紀がにこにこと笑って「ありがとうございます」というと、深くは追求してこなかった。 真弘がこうして珠紀を迎えに来るようになったのは、秋口に起きた事件がきっかけだ。色々とあり、お互いの仲が深まってようするに恋人同士というものになったのである。 それからは遅刻することの多かった真弘がなんと珠紀を毎朝迎えに来るようになり、珠紀もそれに甘えるようになった。 ともかく、目敏い…というか、遼ほどとは言わないが鼻が利く真弘の嗅覚に少々焦りつつもその場をごまかせたことに珠紀はホッとした。 授業があるから、と校門のところで別れて珠紀は鞄を抱えて教室に駆け込む。 「お、なんだよそんな息切らせて。走らなくてもまだ授業は始まらねえよ」 珠紀とタッチの差で教室に入ってきた拓磨が、あまり表情を出さずに珠紀の頭に鞄をぶつけた。 「いたっ、ちょっと拓磨。私たち今日まだ挨拶もしてないのに、なんで殴るのかな?」 「悪い、そこに殴りたくなるような浮かれた頭があったもんだから、つい」 「ついじゃない!ついじゃ! まったく、そんなんだったらこれあげないよ?」 そう言いつつも珠紀は鞄から取り出したオサキ狐にあげた包みと同じものを拓磨に押し付けた。 「はいこれ、いつもどうもありがとう。感謝して食べるように」 「随分と上から目線だな。まあ、貰っとく。サンキュ」 さっき殴ったところをポンポンと軽く叩いて、拓磨は自分の席へと歩いていった。どうやら顔を見る限りだと照れているようだ。まったく、素直じゃないなと珠紀は思いつつも喜んでくれているようなのでよしとする。 問題は本命に渡せるかどうかなのだが。昼休み、いつもどおり集まった皆にこっそりと義理チョコを配って、そんなことにも気づかずに焼きそばパンを頬張る真弘に全員が羨ましそうな視線を向けているにも関わらず、珠紀は悶々と考えていた。 ご飯が喉も通らない心境で昼休みを終えて(でも全部食べた)、さあいよいよ本番の放課後だ。実は授業中から今に至るまで、珠紀は脳内シミュレーションを繰り返していた。恋人同士なのだから別に今更、という気が第三者としてはしなくもないのだが、珠紀にとっては結構重要だ。何せ乙女の一世一代の決心が込められている。 一度トイレに行って自らの身だしなみを整える。鏡を見てから特におかしいところがないと確認してから、珠紀は「よし」と呟いた。 いざ決戦へ。そして教室を覗こうとすると、中から聞きなれた笑い声が聞こえてきた。 「真弘先輩、もう来てる……早いなあ」 あらかじめ手元に用意していたチョコレートを準備して、二人の会話に耳をそばだてる。入るタイミングを見つけなければ。 「俺、見ちゃったんだよなあ。絶対アレは特別なチョコだ」 真弘がぼんやりとした口調でそういう。珠紀は自分の記憶を総動員して真弘と話しているときに鞄を開けたかどうかをリフレインする。特にそう気取られるような態度は取っていなかったはずなのだが。 「別に、特別なチョコを送る相手が居てもおかしくないでしょう」 こちらの声は一方、拓磨だ。呆れるように真弘に答えている。 「だよな……でもさあ、やっぱちょっと…ショックだよな」 会話の意図がつかめない。もしかして今まであげるのを引っ張ったから真弘を傷つけてしまったのだろうかと珠紀が焦り始めると、真弘はこう続けた。 「ああ、フィオナ先生のチョコ!くっそー!俺が食いたかった!」 …………はい? 珠紀はすぐにも教室に入ろうとしていた動きを止めた。ついでに申し訳ないと思っていた表情も聞こえぬ音を立てて凍らせる。 「なんでだよ! フィオナ先生、俺にチョコを!フィオナ先生の愛のチョコを!!」 「いや、どう考えてもそれはアリアにあげるものじゃないすかね」 「ばーろーーー!そうじゃなきゃ許せねえ!いや、あのチビッコでも許せねえが! くそ、羨ましいな、フィオナ先生のチョコ!」 珠紀は隠れていた手に力を込める。 めりっと、珠紀は自分が持っていたチョコの一部が変形したのを指先から感じ取った。 ぬらりと教室に姿を見せた珠紀。先に気づいたのは拓磨だった。顔にはしっかりと「しまった」と書いてある。 珠紀のひとつ前の机に座ってる真弘。そしてその脇で話に興じていた拓磨。二人が珠紀の姿を視認した瞬間、珠紀は呟いていた。 「そんなに、フィオナ先生のチョコが良かったですか。欲しいですか、私のよりもずっとそっちのがいいですか」 「はあ!? いや、これはアレだ! 言葉のアヤって奴で……!」 真弘は自分の叫んでいた内容が聞かれたことに、本気で焦り始めたのだろうがもう遅い。何せ珠紀はちゃんと聞いた。全部聞いた。 「真弘先輩の、ばかぁあああああ!!!!」 持っていたチョコレートを真弘に向けて投げ、そして珠紀は叫んだ。 「おーちゃん!!」 「ニ!」 オサキ狐が珠紀の影から飛び出して、砲丸のようにそのチョコに威力をつけた。まさかそんなあわせ技が来るとは思ってなかった真弘は、あまりのスピードに逃げるどころか両手で受け取ることも出来ずに、 「へぶしっ!!」 どんがらがっしゃーん!! 顔面でチョコを受け取った挙句机を巻き込んで吹っ飛ばされた。いくつもの机を倒したりしながらようやく止まったとき、真弘は口から魂が抜けかけていた。 「うわぁあああん!! 先輩のバカバカ!嫌いですからぁああ!!」 教室から泣きながら出て行った珠紀。そんな珠紀を止めるかどうするか考えて、拓磨は結局潰れている真弘の救出を率先させた。 「真弘先輩!大丈夫すか? 死んでたら返事しないでください。俺が珠紀のチョコ食うんで」 「食わせるかああ!!」 「あ、生きてた」 「当たり前だ、この鴉取真弘先輩様を舐めるんじゃねえ! あの程度のことでくたばるほどヤワじゃねえよ」 「いや、先輩。血、血ぃ出てますよ。頭と鼻から血ぃ出てますって」 と、見事復活を遂げた(?)真弘。その真弘に対して拓磨は冷静に突っ込んだ。真弘はとりあえず鼻をずびずびとすすったあとに(それでも血は垂れていたが)、腕を組んで踏ん反り返った。 「とにかくだ! アイツのチョコを他の野郎なんざに食わせる気はねえ。というわけでアイツを追いかける」 「……せめて頭と顔、なんとかしてからにしたほうがいいすよ」 「バカ野郎! アイツを放っておけるか!」 「鼻血だして追っかけられるんだったら、絶対放っておかれたほうがいいと思うんすけど」 どこの変態に追いかけられるのかと思うと、珠紀が不憫になり拓磨はせめてもの忠告をする。すると、思い当たる節があるのか真弘はくぐもった声を上げて抗議した。 「け、けどよ、好きな女が泣いてるっつーのに放っておけるかよ」 「だから、せめて鼻血止めてからでもいいでしょう。興奮すると鼻血止まらないすよ」 「鼻血鼻血言うなーーー!!」 真弘は叫びながらも先ほどよりかは大人しくなって、ようやく拓磨は溜息をついた。 → 20081112 七夜月 |