不意打ちの鼓動 1 「ボーっとしてると、危ないぞ」 アンジェリークは停止してしまいそうな思考を頑張って繋ぎとめて、現状から脱するために火照る頬を押さえながら命の恩人から距離を置いた。 「アンジェ? どうした、どこか怪我でも」 「なんでもないわ、助けてくれてありがとうレイン。今度は気をつける。そ、それじゃあ私もう行くわね」 急ぎ足で階段を駆け下りていくアンジェリークを怪訝そうな顔で見送るレインを残してアンジェリークはもてあます熱情を祈りで掻き消した。 最近のアンジェリークは自覚するほどに少しヘンだった。レインの傍にいると、胸がときめいて止まらない。彼が自分に対して、並々ならぬ感情を抱いてくれているのは先日知った。だが、それから彼を意識することが多くて、アンジェリークは溜息をつく。 「こんなことではダメだわ。みんなにもヘンだと思われてしまう」 今だって、階段から落ちかけたアンジェリークをレインが後ろから支えてくれたからアンジェリークは助かった。お礼もそこそこに逃げ出すようにこうして外に出てきたのはいいけれど、この後戻ったら目を合わせて話せるかどうか正直自信がない。 助けてくれたとき、レインの腕がまるで抱きしめるように彼の中へと自分の身を収めるのにアンジェリークは気づいていた。冷静に考えられる今、彼の匂いが鼻孔に残り抱きしめられた事実に一人で照れてしまうのだ。 バカみたいだとは自分でも感じている。 こんなことをしていたら、いつかレインを傷つけてしまうのではないかという危惧もある。なのに、レインを前にするとアンジェリークはいてもたっても居られなくなって、逃げ出してしまうのだ。 「どうしてこうなってしまうのかしら」 それもこれも、全部この鼓動が悪いのだ。彼を前にすると高鳴ったりするから。 落ち込んだ気分を紛らわそうと、アンジェリークはニクスの管理している花畑までやってきていた。花を見れば心も和む。花壇の傍でしゃがみこみ何もせずにただジッと見ていると、名前を呼ばれた。 「どうしたの、アンジェリーク。もうそろそろ寒くなってきたから、いつまでも外でじっとしていたら風邪を引いてしまうよ」 ジェイドだった。手には買出ししてきたのか大きな紙袋を抱えている。 「ジェイドさん、お帰りなさい。お買い物だったんですか?」 「うん、そうなんだ。そろそろ倉庫の食料も切れる頃だし、フルーツも欲しかったしね」 ほら、とジェイドは輝くような笑顔と手の中のりんごを見せる。 「アンジェリークは花壇の手入れをしていたの?でも、道具が見当たらないようだけど。今日は風が強いし、もしも時間があるのなら、暖かい部屋の中で一緒においしいスイーツでも作らないかい?」 「……そう、そうですね。そうします」 こうして考え続けても、きっと自分は答えを見つけることは出来ないだろう。だったら、ジェイドと一緒に何か作るのも悪くない。アンジェリークは立ち上がると、にっこりと笑った。それと同時に、不思議に感じる。どうしてジェイドや他のみんなにはこんな風に普通に接することが出来るのに、レインだけにはダメなのだろう。自分が以前は男性にまったくかかわりが無い生活を送っていたから? でも、そんなことないのはレインも実証済みだ。一緒に暮らし始めた頃は、普通に接することが出来たはずなのだ。 だから、それが理由なはずはない。 胸がもやもやする。いけない、こんなこと考えてスイーツを作ってもきっとおいしくなくなる。アンジェリークは首を振ることで考えを振り払った。 「そうだわ、さっきのお礼にレインにアップルパイを焼こうかしら」 そうだ、お詫びも兼ねてアップルパイを作って渡したら、少しは自分も意識をしないで済むかもしれない。余計なことを考えずに、ただ食べてもらいたいと思えばそれでいい。きっとうまくいく。 「レインに?それはとても素敵だね。きっと彼も喜ぶよ」 名案が出たとアンジェリークが思わず微笑んだのを、ジェイドは笑顔で同意した。 ジェイドとのお菓子作りは非常に有意義な時間だった。アンジェリークは笑いが絶えなかったし、ジェイドもにこにこしていた。スイーツも上手に出来ているし、あとは焼けるのを待つだけだった。 「それじゃあ、俺は少し水を汲んでくるよ。きっとニクスがおいしい紅茶を淹れてくれるから」 「はい、それなら私はここでオーブンを見てますね」 アップルパイが焼けるのを高温のオーブン前で見ていようとジェイドを見送るアンジェリーク。ジェイドも笑顔で応えて調理場から姿を消す。だが、姿を消したのにここからすぐ近くで、ジェイドの戸惑いを含んだレインを呼ぶ声が聞えた。 アンジェリークが調理場から外を窺うと、より一層声が近くなった。 「待って、レイン。今から出かけるのかい?」 だが、呼応するはずのレインの声は少しだけ遠くて聞き取りにくい。どうやら言葉少なに答えているようでもある。 「すぐ戻ってくるのかい?」 戸惑うジェイドの声だけが、アンジェリークの耳に響く。 「レイン?」 訝しげなジェイドの声を最後に扉が閉められた音がして、思わずロビーへと足を運んだアンジェリークだったが、そこにはジェイドしかいなかった。アンジェリークが来たことに気配で気づいたのか、ジェイドはすぐにも振り返って笑顔を見せてくれる。 「ああ、アンジェリーク」 「レインはでかけてしまったんですか? こんな時間に?」 もう夜の帳が下りる時間だ。夕暮れも終わり、遠くの空にはまだオレンジ色の空が残っているが、このひだまり邸の上の空はとっくに暗くなっている。アンジェリークが外に出ようものなら、止められる時間だ。 「うん、そうなんだ。きっとすぐに戻ってくるよ」 「そう……どこに行ったのかしら」 独り言の呟きにも、ジェイドはきちんと答えてくれる。 「詳しくは言っていなかったけど、でもこの時間だったらそう遠くはないんじゃないかな」 「……きっとそうですね」 これ以上何も知らないジェイドには尋ねられない、アンジェリークは気持ちを切り替えるように彼の言葉に納得した。エルヴィンにいつまでも火の番をしてもらっているわけにもいかないので、水を汲みに行ったジェイドとは逆にキッチンに戻ったアンジェリークはほんの少しもやもやした気持ちを抱えながらアップルパイが焼きあがるのを待った。アップルパイが焼きあがって、レインや他のみんなと一緒に食べれば、きっとこのもやもやした気持ちはなくなると、そう信じられた。 だが、ジェイドが戻ってきてアップルパイが焼きあがって、他の皆も揃ったのにレインの姿だけは結局テーブルに着くことはなかった。 「きっとすぐにも帰ってくる」 そうアンジェリークも信じていたが、レインは出て行ったきり戻ってこなかった。 → 20081006 七夜月 |