御本殿


「おかしいなぁ、こっちへ来たと思ったんだけど……」
 望美は案の定白龍の姿が見えなくてきょろ、きょろ辺りを見回した。しかし、目的の人物はここにはいないようだった。
 そして、自分で今の現状に気付く。これは間違いなく迷子だ。
「わたしが迷子……かな、やっぱり…」
 恥ずかしい。この年で迷子になるとは正直思っても見なかったことで、ミイラ取りがミイラになってしまったようなものだ。
「望美さん、一足お先に参拝ですか?」
 クスクスと後ろから笑い声が聞こえてきて、望美は振り返った。
「弁慶さん! 良かった、わたし迷子になっちゃったのかと思いました」
「ふふ、白龍はちゃんと戻ってきましたよ」
「うわぁ、じゃあやっぱりわたし一人で迷子だったんですね」
 がっくりと肩を落とす望美。だが、ふと気付く。
「あれ、弁慶さんどうしてここに?」
「君を探しに来たんです。迷子になった僕の可愛い人をね」
 かぁっと望美の頬が火照る。何度言われても慣れない。お世辞と解っていても、やはり好きな人から言われると、いつまでたっても翻弄されてしまう。
 ヒノエに言われても最近はなんとか平静を保っていられるのに、恋とは恐ろしい。
「そういう誤解を招く発言はよくないと思います」
「誤解ですか?」
「そうです」
 本気にして、後で冗談だってわかったときの自分の落ち込みようが安易に想像できて望美はむっつりと押し黙った。
 そう、弁慶はあちらの人。いずれは向こうに帰るのだ。だから、ずっと一緒には居られないし、別れる時余計辛くなるだけだ。
「望美さん、せっかくここまで来たんです。どうやら僕たちは他の参拝客の列に交じってしまったようですし、一足お先に参拝しませんか? この距離ならすぐに済みそうですよ」
「え、あ、はい」
「せっかく二人きりになれたんです。たまにはこんな役得があってもいいでしょう」
「べ、弁慶さんまたそういうことを……」
「本音ですよ?」
 笑顔で言い切るところが怪しいんです。望美は心の中で呟いて、取り合わないことにした。絶対口では勝てないし、弁慶にそもそも勝とうなんて無理だ。幾度か試みて失敗している。
「それより、弁慶さん。弁慶さんは何をお願いするんですか?」
「そうですね……向こうの世界の人たちの幸福でしょうか」
「自分の事じゃなくて?」
 多少なりともその回答に驚いて、望美は疑問で返してしまった。
「それはもう叶っているので、特には。ただ、自分の事で願うとしたら……」
 弁慶が考える様子なく黙ってしまったので、望美は珍しいと思いながらも深くは追求しなかった。
「そういう君は何をお願いするんです?」
「う〜ん、秘密です」
「それはずるいな」
「ふふふっ、機会があれば教えてあげます」
 そんな話をしている内に、順番が廻ってきた。今年は人通りが多いのでもっと時間がかかるものだと思っていたのだが、どうやら嬉しい誤算のようだ。
 賽銭箱の中に財布から取り出したお金を入れる。そして望美は目を閉じて心の中で願いを唱えた。
「(まずは今年一年家族や皆が幸せに暮らせますように、それから受験に合格できますように、それから……)」
 思いつく限りの願い事を心の中で唱える。欲張りといわれてもいい、全部が叶わなくてもどれか一つでも願い事が叶えば、他の願いは自力で叶える。
「(それから、それから……どうか神様、わたしに弁慶さんと離れても耐えられる心をください)」
 一番、それがかなえて欲しい願い。
 本当の願いは絶対に口にしない。神様にもお願いしない。
『離れたくない』
 きっと願えば白龍は叶えてくれようとするだろう。
 でもそれは弁慶の自由を望美が奪うことになる。帰るべき場所のある彼をこの世界に留めても、彼に幸せはきっと訪れないだろうから。彼にはたくさんの待ってくれる人がいる。その人たちの思いも踏みにじることを、望美にする資格は無い。
 だから、自分に出来る唯一のお願い事はこれだけ。
「(皆と一緒に帰る彼を、笑って見送れる勇気をください)」
 こんな願いをするだなんて、弁慶には絶対に言えなかった。彼を困らせることは目に見えているというのに、言える筈が無い。熱心に祈りを終えると、じっとこちらを見ていた弁慶とばっちり目が合った。
「随分長いお願い事でしたね」
「はい、年に一度の事だし、少し欲張りになりました」
 このときはちゃんと笑えた。別れるが来るときはまだ先だ。だから、まだ笑える。今そのことを考えたら少しヤバイかもしれないと望美は思うものの、白龍の神子として培ってきたポーカーフェイスは伊達じゃない。
「さて、皆待ってるでしょうね。連絡をしようとも思ったんですけど、この人混みで繋がらなくて」
「あ、本当だ」
 言われて初めて皆に連絡をしていないことに気付いた望美。携帯を取り出すと、確かに圏外ではないが電波が一本も立っていない。電波が微弱ということか。この状態だとかけても繋がらないか、すぐに切れてしまう場合が多いのである。
「では、さっき決めた集合場所に戻りましょうか」
「はい」
 スッと、自然な動作で手を出され、望美はきょとんとなって弁慶を見つめる。
「どうぞ、また君が方向を見失っては大変ですから」
 今度は迷子にならないようにということなので、望美は苦笑いしながら、だけど心臓は高鳴らせながら、その手を取った。
「ありがとうございます」
 少し冷たい自分の手。緊張しているから指先が冷たく感じる。だけど、望美の冷たい手に一切文句も言わずに強く握り返してくれる弁慶に、望美は素直に喜んだ。
「弁慶さん、もしも自分がお願いするなら何を願うんですか?」
 先に歩いて人混みを縫って歩いてくれる弁慶の真後ろから望美は声高に尋ねた。
「君が教えてくれたら教えますよ。君こそ随分と熱心でしたね」
「ふふふ、それはそうですよ。だって今年は受験も控えてますから。それに、わたし神様に頼らないと駄目なくらい弱いから」
 強くなれたと思った。決断する勇気も手に入れた。だけど、結局望美は別れということが恐い。否、あの世界で多くの別れを経験したことで、より一層別れに対して敏感になってしまった。
 別れたらどんな心の痛みがあるかを知ってしまっては、もう以前のように笑えるかどうかは自信がない。
「自分が弱いと、君は思っているんですか?」
「弱いですよ。だって、こっちに帰ってきたらわたしは所詮女子高生でしかないんです。剣も持たなければ白龍の神子でもない。ただの、普通の人間です」
 瞳を伏せて自分の無力さを噛み締める。向こうの世界では散々お世話になったのに、こちらに戻ってきて望美が出来たことといえば、観光案内くらいだ。
「確かにこちらの世界では君は普通の女の子です。けれど、君は神を頼るべきではない」
「弁慶さん?」
「たとえ今は普通の女の子でも、君は神子です。その力はまだ君の内に残っているし、死ぬまで君が神子ということに変わりありません。君は神の申し子。いわば神の意思です。ならば、君の悩みは結局神の悩みでもある。結局は自分で自分を頼っているんですよ。そんなのは辛いでしょう」
「だったら、わたしは誰に頼ればいいんですか?」
「僕がいますよ」
 歩いていたはずなのに急に止まって、思わず望美は弁慶の背中にぶつかってしまった。
「僕がいます、望美さん。僕を頼ってください」
 背中越しだから表情は良く見えない。だけど、ぶつかって密着した背中から聞こえてくる心音がいつもより早く感じて、望美はそっとその背中から離れた。
「だけど、弁慶さんいつかは他の人と一緒に帰っちゃうでしょう? そうしたら、わたしはまた頼れる人を探さなくちゃいけないんですよ? だったら神様に頼っていた方が」
「帰りませんよ」
「は?」
「僕はこちらの世界に残りますから」
 今、何て言った? 望美は理解するのに数秒を要する。
 ようやく先ほどいった弁慶の言葉を飲み込めて目を瞬いた後、望美は大きな声で叫んでしまった。
「へッ!?」
「帰るとしたら君も一緒です。でも、君はこちらに残る決意をしたのでしょう? だったら君と離れない方法は一つ。僕がこちらに残ればいい」
「そ、そんな簡単な……! どうしてそんなことに!」
 あっさりといわれると、望美は何が何やらでいつの間にそんな展開になっていたのかついていけていない。
「おや、まさか気付いていなかったんですか? 僕の気持ち。僕は君の気持ちには気付いていたんですけど」
「だ、だってそんな……!」
「ふふ、すみません。驚かせたくて黙っているつもりだったんですけど、我慢できませんでした」
「が、我慢できませんでしたって……」
 もう何がなにやらさっぱりわからなくなっている。混乱した望美を振り返って、弁慶はいつもの微笑を浮かべた。
「では、先ほどの話をはっきりと言いましょう。要は君が神に頼ることすら、僕にとっては嫉妬の対象なんです。君が頼る相手は、僕だけでいて欲しい。そんな独占欲もあるんですよ。神様に頼らなくても、僕は君を幸せにする自信がある…なんて、こんな僕は嫌ですか?」
 普段は自信満々なくせに、最後の質問だけは弱弱しいなんてずるい人だと望美は思った。肯定出来ないことを知っているのにこうして確かめてくるのだから。
「……嫌じゃないです」
 なんかよくわからないけれど、やはり最初から勝負にすらなっていなかった。同じ土俵に立っていない相手とやりあうなんて、無茶にもほどがある。
 今回は弁慶の一人勝ちで圧勝というのは紛れもない事実なのだ。
「良かった。君に否定されたらどうしようかと思っていました。これで心置きなく恋人同士ですね」
「はっ……はい、そうですね」
 改めて言われるとものすごく恥ずかしい。しかもこの人ごみの中で誰かに聞かれていやしないかと、半分気が気じゃない。望美は話題を変えるつもりで弁慶に話を切り出した。
「でも、あっちの世界に弁慶さんを待ってる人がいっぱいいるんじゃないですか?」
「薬師としての僕なら他にも薬師は居ますし、僕ももう子供ではありませんから家族にしがみついて生きていくというわけにも行きません。何より君の恋人になれるのはたった一人で他に代役が立ちませんし、立たせるつもりもありませんから」
「それはそうですけど……でも、そういうことなら神様に余計なことをお願いしちゃいました」
 再び歩き出したその背中に声をかけながら望美は少し青ざめて弁慶に告げる。
「弁慶さんと離れても壊れない心をくださいってお願いしたんです。あと、笑って見送れる勇気をくださいって。なんだか逆に悪いお願いごとをしてしまったみたいです」
「すみません、つい遊び心が疼いてしまって。でも、また後で皆と来ますし、そのときに願い事のやり直しをすればいい」
「……そう、ですね」
 そう簡単にお願いをころころ変えられてたら、神様だって忙しいだろうに、簡単に言ってのける元荒法師の軍師様はまったく悪気の無い楽しげな声音である。
「今度願うときは何を願うんですか?」
「そんなの決まってますよ。たった一つしかないんだから」
 当然とばかりに言い切った望美。だが、弁慶も困惑した様子無くそうですねと頷いた。弁慶も望むはたった一つだから、きっと二人の願いは重なり合う。

『今年もずっとあの人と一緒にいられますように』

 初々しいカップルの新年の願い毎の大半と寸分違わぬこの恋人達の願いは、きちんと白龍の加護のもとでその年を幸福に過ごすことであろう。
 今年の約束が終ればまた来年の約束へ繋がり、そうして未来永劫、神の御許で幸せな家庭を築いていける。
 幸せ予備軍の彼女達。神に頼らなくても常に相手と幸せになれる術を新年から手に入れたようだ。


 了



 
   20070104  七夜月


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