貴方と微笑みあいたいから



 最後の微笑みが、淡く散った。




「帰って、来ちゃったんだ……私、この世界に」
 雨音が支配する、静かな世界。元の世界と寸分違わぬ光景。
 誰の気配も感じなかった。
 そう、最後まで私に笑いかけてくれていた人も。
「よかったんだよね……? これが、弁慶さんの願いだったんだもん。……これで、良かったんだよね?」
 自問自答を繰り返す。けれど、望美にも解っていた。これが最良だなんて、絶対思えないことくらい。
「困らせずに済んだんだもの。良かったんだよ、これで」
 さようならといった弁慶の残像が頭から離れない。
 それを振り切るように頭を振りかぶった。
「これで、良かったんだ」
 もう一度呟いて、望美は歩き出す。
 自らを納得させるには、始まりの場所に留まり続けることなんて出来なかった。

「おはようございます、先輩」
 庭で花に水をあげていた望美の元に、隣の敷地から声が聞こえてきた。
 見てみれば、譲が制服を着ていかにも学校に行く出で立ちである。そういえば弓道部は日曜日も練習だったんだということを思い出して、望美は納得した。
「譲くん! おはよう、将臣くんは?」
「まだ寝てますよ。今日が日曜だからって、また昨日夜更かししたみたいです」
「また〜? ちょっとゆっくりしすぎじゃない? 羨ましいご身分だね」
「そうですね。先輩、兄さんに何か用でした?」
「え? なんで?」
 ぎくり、と望美は内心焦ったが、なんとかそれは表に出さずに済んだ。
「いえ、なんとなくですけど。先輩、兄さんに言いたいことがありそうな顔してるから」
 譲は良く見ている。ここは誤魔化すにしても完全否定すれば怪しまれてしまう。何とか頭をひねって望美は事実を誤魔化しながら尋ねた。
「あ、別にね…大したことじゃないんだ。ほら、将臣くんってあっちの世界でお世話になってた人がいたじゃない? その人たちってどうなったのかなぁって思って。みんな無事だったのかなって」
 まだ将臣も還内府だったことは譲には告げてないのだろう。望美も実際将臣の口からその事実を聞いていないし、逆鱗の力で過去を遡ったときの記憶で将臣が還内府だということを知っていただけだ。あれからの平家の動向が知りたいなんて、事情も知らない譲には聞けないだろう。
「あぁ、そういえば……でも俺もそんな話聞いてないですし、そうですね、今度聞いてみます」
「あ、ううん。いいよ、自分で聞くから。譲くんは部活でしょ? こんなゆっくりしてて大丈夫?」
「このくらいなら大丈夫ですよ。でもそろそろ行きますね」
「うん、いってらっしゃい! 頑張って」
 手を振って見送った望美は、一仕事終えると自分の部屋に戻った。窓から見える隣の部屋は、将臣の部屋だ。手を伸ばせばギリギリ届く範囲にある。
「んしょっと」
 無用心にも鍵が開いていたので勝手に開けて将臣を呼んだ。
「将臣くん、ねぇ 起きてる?」
 中から返事は聞こえない。聞こえるのは規則正しい寝息だけだ。
「将臣くん、もう朝だよ! 起きろー! 起きないと勝手に部屋に入るからね!」
「…………………」
 やはり返事はなかった。仕方が無いので、望美は何年かぶりに窓から将臣の部屋に入るという荒業へと繰り出した。
 窓のサッシに足をかけて向こうの窓を全開にし、そのまま部屋に侵入する。一応下には一階の屋根がついているので危なさはそんなにないが、年頃になるといつしか、こんなこともしなくなっていた。
「昔は将臣くんが、よく勝手に人の部屋に入ってはゲームしたり漫画読んだりしてたけど……」
 ぶつぶつと遠い昔のような記憶に懐かしさを馳せる。しかし、何故こんなにも昔のことのように思えてしまうのだろうか。
「ああ、そっか……あっちの世界の記憶が印象深いせいかも」
 朔に舞を教えてもらったことや、九郎と一緒にリズヴァーンに剣を習ったこと、ヒノエや白龍と熊野を回ったことや、景時やみんなと花火を見たこと、そして…弁慶に文字を教えてもらったこと。全部が全部真新しい記憶のように蘇ってくる。
「ダメダメ! 考えちゃダメだってば! 私はこっちの世界に帰ってきたんだから!」
 けれど、頭を振れば振るほど、思い出すのは楽しかった弁慶との日々。
 かくれんぼしたり、こちらの世界のことについて一緒に話したり、ずっと一緒に居たいって思ったり。
 そう、弁慶はいつでも傍にいてくれたから、困ってるときにいつも手を貸してくれたから、彼のいない思い出が少なくて。
 望美は将臣の部屋に入ってからも、何も喋らずにへたり込んでいた。自然と足から力が抜けてしまっていたのだ。
「へっくしょん!」
 ハッと気がついたきっかけは、将臣の盛大なくしゃみだった。
 ずびっと将臣は鼻をすすって、寝返りを打ちながら布団をかけ直している。
「将臣くん、おはよう」
「……んだぁ〜? さみぃな。窓閉めておけよ」
「あ、ごめんごめん」
「ったく、起こすならもっと優しい起こし方しろよな」
「ごめん、考え事してたらつい忘れちゃって……」
「って望美!? 何でこんなとこにいんだよ!! ……うわっ!」
 ガバッと布団から顔を出した将臣は、驚きの反動でベッドと壁の間に落ちた。
「目は覚めた?」
 くっと笑いをこらえながら、望美は尋ねる。それに対して将臣は少々頭をかきながら罰の悪そうな顔をする。
「あぁ、お前がいたことが何よりの目覚ましだ」
「あ、そうなんだ。なんだかよくわからないけど、起きたのなら良かったね」
 起き上がりながら頭をかいている将臣に、望美は笑顔を向けた。
「んで? お前なんでここにいんの?」
「ちょっと将臣くんに聞きたいことがあって。さっきね、譲くんに会ったんだけど将臣くんまだ寝てるって言ってたから」
「ふ〜ん、何だよ聞きたいことって」
 ふぁ〜っとあくびをしながら聞き流していた将臣は、面倒くさそうに返事をした。
「将臣くんって還内府だったでしょう? あれから平家の人たちってどうなったのか知りたくて」
「ぶっ!げっほげほ……!」
 空気を吸いすぎたのか、いきなり一人で将臣はむせだした。
「あれ? どうしたの?」
「いや、お前なんで俺が還内府だったって知ってんだよ」
「えっ、あの、それはまぁ……いいじゃない、別に。そんなことより教えてよ。平家の人たちは無事に逃げられたの? 清盛が消えて、三種の神器は無事返還されたの?」
「……お前、何でそんなこと知りたいんだ?」
 将臣の目が、厳しくなる。随分離れているうちに、どうやら将臣も疑い深くなったらしい。平家の将を務めていたのなら、しょうがないかなっと望美は内心で溜息をつく。
「……興味本位…じゃ、納得してくれそうにないね。解った。私も本当のこと話すよ。私は白龍の神子であるのと同時に、源氏の神子でもあったんだ。こういえば、納得してくれるかな?」
「お前が、源氏の神子……? まさかとは思ってたけど……」
 将臣はどんな顔をしたらいいのか解らないといった様子で、望美も苦笑する。この反応は当然といえば当然なのかもしれない。一歩間違えば、戦場で剣を交わらせてたかもしれないのだ。
「だからね、私たちよりあとに帰ってきた将臣くんなら詳しいんじゃないかと思って」
「そんなこと知ってどうする?」
 笑いながら何でもなさそうに望美が言うと、将臣の目がスッと細められ厳しい顔つきになった。
 そんな目をされるとは思っていなかった望美は戸惑いを隠せずにうろたえた。
「どうするって、知りたいと思っちゃいけないの?」
「もうこっちの世界に戻ってきたんだろ。だったら、あっちの世界で何があろうと関係ねぇじゃねーか。あっちの世界のことはとっとと忘れろよ」
「そんなこと、出来るわけないじゃない」
 冷たい言葉にムッとした望美は言い返した。しかし、将臣はそれでも話す気がないのかこちらを見ようともしなかった。
「もういいよ、将臣くんがそんなケチだとは思わなかった! じゃあね、お邪魔しました!」
「待て、望美。一つだけ言いたいことがある」
「なに?」
 行きと同じように窓から帰ろうとサッシに足をかけていた望美はその場で止まった。何か教えてくれるのかと、期待を込めた目で振り向かれ、将臣はそれを見てドアを指差し嘆息した。
「玄関から帰れ」


 




   20060421  七夜月

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