逢いたくて、逢いたくて。




 二月十日。
 逢いたくてたまらなくて、飛び出した家。
 迷惑なんじゃ? とか、逢えなかったら? とか、一報しておけば良かったかな? そんな後悔も走っている内にどうでもよくなっていた。
 自分を大事にしないあの人は、決して誕生日にも拘らないし、きっと明日がそうだとも忘れているのだろう。
 去年の明日も、仕事をしていた。
 今年の明日もまた仕事だ。でも終ったら逢える。約束だから。
 だから、それまでの辛抱なのに。子供なわたしはそれが出来ない。
 逢いたくて、逢いたくて。
 とにかくわたしは足を動かした。冷え込んだ空気が頬をピリッと刺激する。街灯の下、誰も居ない道路をただ、携帯だけ握り締めて走った。でかけてくると母親に一言告げて、いってらっしゃいの声を背に、わたしは今寒空の下の歩道をひたすら走っていた。
 約束した。でも、弁慶さんの意思とは関わらず、仕事が忙しくなってしまったら、逢うことも出来ないかもしれない。
 残業だってしなくちゃならない。それが大人の都合だから。
 でも、逢えないのは嫌。せめてほんの少しの時間でもいい。明日だけは、絶対に。
 抱きしめてあげるだけでいい、たった一言。彼に、明日という日に、伝えたい言葉がある。
 忘れないで、ずっと昔からの大切なこと。
 思い出して、貴方を世界が愛していると。
 大通りを渡る信号がもどかしくて、歩道橋を駆け上がる。緩いカーブを抜けると、少しだけ近くなった星空。
 けれど、星空よりもずっと、わたしにとって明るい光が、わたしの前に現れて、感極まって大きく深呼吸した。
 輝いていたのは、ネオンに反射する彼の髪の色だった。栗毛色が今は、月の光を反射するように、金色に輝く。
「将臣くんから、急に連絡があったんですよ」
 目の前に現れた人は、息一つ乱していない。わたしはずっと走り続けていたから、肩で息をするのが精一杯だというのに。
 そんな余裕な彼に、わたしはやっぱりかなわない。
「きっと僕に、逢いに来るからと」
 時間も遅くて、歩道橋にはわたしたちのほかには誰も居なかった。でも、たとえ居たとしてもわたしがとった行動は決して変わらないだろう。
 返事もせずに、彼に飛びついた。背中にまわした腕に力をいっぱい加える。
 何故? と、理由を一切聞かない彼は、笑みを漏らしながら、抱きしめ返してくれた。
「望美さんは甘えたがりですね」
「弁慶さんにだけです」
 彼にだけ、甘えられる。彼の傍にだけ、ずっと居たい。よしよしと、子供にするように頭を撫でられて、その子ども扱いですら今は愛おしくてたまらない。
「冷えているだろうと思っていたのに、随分と君は温かい」
「走ってきたんですよ」
 逢いたくて、たまらなかったから。
 逢いたくて、逢いたくて。
 いつも傍に居られなくていい。だけど、ほんの少しでも彼が自分を愛することの出来る時間が出来るのならば、わたしはそれに命すら賭けられる。でも、死ぬという意味じゃない。命は懸けても、決して死なない。彼の傍を最悪な形で離れることだけは絶対にしない。
 やっと手に入れた安息の日々を、一番感じられるときだって、彼が知らなくたってわたしが知ってる。それを壊すことがないように。だから、どんなときでもわたしは走る。どの世界にいたって、彼の後姿を追い続ける。いつか、横に並べる日を夢に見て。見失うことがなくなる日まで、わたしは走り続けるのだ。
「弁慶さんと、少しでも明日を一緒に味わいたかったから。ごめんなさい」
「謝らないでください。君は悪いことをしているわけじゃない…むしろ、逢えて嬉しいです。ありがとう、来てくれて」
 走ってきて、身体が熱いとは言え、肌がむき出しの顔は時間が経つほどひんやりと冷たくなっていく、弁慶さんの私よりも大きくてあったかい手が、その頬を包んだ。その温かさにじんわりと浮かぶ涙。この人は生きていて、また今日という日が迎えられるのだ。
 こんなに大切な日だから。あなたの生を実感できる大切な日だから。
 あなたが忘れていたって、わたしは絶対忘れない。忘れてなんてあげないよ。
 何故なんて聞かなくたって解るよね? ねぇ、弁慶さん。
 逢いたくて、逢いたくて。
 繋がった心に、重なった唇。
 唇から全てに、わたしは目を瞑って彼から与えられる愛情を、全身で感じ取りながら彼の心を受け入れた。


 彼女が家を飛び出したと連絡を受けたのは、数分前。彼女の幼馴染は丁寧にも自分に連絡を寄越してきた。
 だが、彼の判断は正しかった。なぜなら、彼女は一つのことに捕らわれてしまうと、他には何も見えなくなってしまうからだ。
 連絡を貰ったのは丁度仕事の帰り道。家へと戻るその途中に連絡を貰ったのだから、僕はすぐにも方向転換だ。
 彼女が通りそうな道を走って戻る。突拍子も無い彼女の行動そのものには、時折驚かされるものがあるけれど、だけど不快になんかなりはしない。
 彼女はいつだって僕を嬉しい驚きで迎えてくれる。そんな彼女に救われている自分の存在を、身近にいつだって感じているのだから、否定のしようもありはしない。
 逢いたくて、逢いたくて。
 彼女の姿だけを求めて、ただ走った。ネオンというもののある、夜でも明るいこの世界。夜の恐さより陽気さが目立つ。
 それゆえに、僕は時折自分の居場所を見失うけれども、それでも彼女はすぐに気付いて手を差し伸べる。
 僕の居場所は君の傍だと、答えを教えてくれるのだ。
 屈託の無い、その笑顔で。彼女は僕の道しるべとなる。
 そのとき、僕の前方で、見紛う事無い彼女の長く美しい髪。目が見えにくくても、顔で判別がつかなくても、彼女の気配、一挙一動だけで僕は判断できる自信がある。
 だけど、彼女はこちらに気付いていない。目先に見えた歩道橋。間違いない、彼女は必ずここを渡る。
 階段を駆け上がるようにして、彼女より先に上りきる。息が上がっているらしい彼女は家からここまでずっと走ってきたのだろう。いつもよりもずっと遅いペースで階段を昇ってきた。顔が真っ赤だ、風邪を引いたりしないか、それだけが心配の種。
 そんな彼女の瞳が僕を捕らえる。
 たったそれだけで、僕は胸が打ち震えた。視線一つでこんなにも、彼女から与えられるものは大きい。
「将臣くんから、急に連絡があったんですよ」
 僕は彼女に告げた。おそらく、疑問に思っているであろうことを。
「きっと僕に、逢いに来るからと」
 彼女は僕を見て一瞬固まった後に、大きく深呼吸をした。そしてなりふり構わず走ってきて、僕の胸へと飛び込んできた。
 戦場で見ていた後姿とは全然違う。この腕の中に納まってしまう彼女は本当にただの女の子。小さな、優しい、女の子。
 逢いたくて、逢いたくて。
 僕はその小さな少女に心からの笑顔を向けた。
「望美さんは甘えたがりですね」
「弁慶さんにだけです」
 間髪いれずに答えた彼女に、また僕は幸せを一つ貰ってしまった。
 上げた手が、彼女の頭を撫でてしまう。彼女は子供扱いするなと怒るかもしれないが、僕はそうしたかった。
 彼女は子供で、それを自覚していて、一生懸命自分と戦っている。
 だけど、僕は子供な彼女だろうと関係ない。結局彼女自身がそこに居てくれればそれでいいのだ。
 熱くなっている彼女の身体、相当走ってきたのだろう。
「冷えているだろうと思っていたのに、随分と君は温かい」
 望む言葉が得られることを、僕は知っている。どんな言葉で尋ねようとも、君の答えはいつだって変わらない。
「走ってきたんですよ。弁慶さんと、少しでも一緒に明日を味わいたかったから。ごめんなさい」
 ああ、やはり。僕は告げられた言葉で己の鼓動が早まるのを敏感に感じ取った。
 君は僕を喜ばす天才ですね。僕はどうしたらそんな風に君を喜ばすことが出来ますか?
 僕は君が求めている事を、与えることができますか?
「謝らないでください。君は悪いことをしているわけじゃない…むしろ、逢えて嬉しいです」
 逢いたくて、逢いたくて。
 そう、僕は君に逢いたかったんです。君が特別だと定める明日。僕はいつもの通り休みも取れずに仕事に向かう。だけど、君は不満一ついうことが無い。きっと、聡い君の事。僕の仕事が忙しくなれば、逢えないかもしれないとも考えているのだろう。だから、君が逢いに来たことを咎めるなんてこと、ありはしないんです。
 『特別』な日に『特別』なことを。
 君なりの僕への誠意はちゃんと、いつだって届いています。僕も返せるだけ、それを君に返したい。
 僕にそれが出来るかどうか、幾年重ねても解らないかもしれないけれど、僕はいつだって君を想っているから。だからこそ、君に僕はこの言葉を贈ることが出来る。
「ありがとう、来てくれて」
 ありがとう、僕を君の『特別』にしてくれて。
 喜びとお礼を表すことは他にもたくさんあるけれど、一番伝えたいことはその一つ。君の特別になれたことが、僕にとって何よりの僥倖。君が選んだから、僕は今ここでこうして幸せでいられるのだから。
 時間が経って冷え始めた彼女の頬に手を添える。
 言葉に表さなくたって、想いを伝える手段は幾つもある。彼女に贈るのは、言葉よりも確実な、僕の気持ちを態度で表わすこと。
 熱い身体から放たれる熱。吐く息が白く濁り、僕の息と交じり合う。
 逢いたくて、逢いたくて。
 君という人-存在-に逢うために、僕は僕の生まれた日に、この世に生を受けたのだろう。


 逢いたくて、逢いたくて。
 愛しい人に逢えたことを、感謝する日。
 それがもう一つの誕生日。


 了


 こそりとおまけ用意しました。  

   20070211  七夜月

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