信頼と不安の狭間で3




 翌朝、弁慶さんが私を訪ねてきた。
「おはようございます、望美さん。昨日は九郎がお世話になったそうですね」
 くすくすと笑いながら告げた弁慶さんの言葉に、九郎さんと昨日あのまま別れたままだったことを思い出して、私は苦い笑顔を向けた。
「いえ、お世話になったのは私のほうですから……それで、今日は九郎さんは?」
「何だか用があるとかで、出かけてしまいましたよ」
「そう、ですか……」
 昨日のことを謝ろうと思ったのに、一緒に来ていないんじゃしょうがない。
「どうかしましたか? いつもより元気が無いみたいですけど」
 私の様子がおかしいことに、弁慶さんも気がついたんだろう。薬師としての顔で今私の前に立っている。
 そっか、九郎さんは何も話していないんだ。何があったか、全然。
「何でもないです、ちょっとマリッジブルーなだけで」
「まりっじぶるう? それも君の世界の言葉ですか?」
「あ、はい。私たちの世界では結婚前の女性がかかりやすい精神的な病気…みたいなものです。環境の変化に対する恐怖が生み出す一種の病みたいなものかな」
「へぇ、君の世界ではそんなことがあるんですね。でも、そんな風に女性に思わせてしまうヒノエは、少々不甲斐ないかな。こんなに君を不安にさせるなんて、男の風上におけません」
「あはは、ほんとうに……」
 笑って答えても、何だか乾いた笑い声しか出なかった。
 一晩経って、ようやく頭の整理が出来て、冷静に考えることが出来るようになった。
 何が起きたか、自分が何を見たのか。
 あの光景を思い出すたびに、声に震えが出てしまう。
「……弁慶さん……私、怖いんです」
「?……望美さん?」
 自分を抱きしめて、必死に諌める。でも、弱音はぽろぽろと口をついて出てしまって、私の意志でも止められなかった。
「私……このまま本当に幸せになれるんでしょうか? こんな、中途半端な状態で結婚して、私は本当に幸せだって、笑えるんでしょうか? 解らないんです……!」
 弁慶さんは真顔になって私の視線を受け止めてくれた。
 最低だ、私……。仲間の優しさにつけ込んで、こんな風に弱音はくなんて。
「何か、あったんですか? 僕で良ければ話してくれませんか?」
 話したら、楽になるのだろうか? 今の私はきっと何を言われてもヒノエくんのことを信じられないかもしれないのに。
 私の考えを読んだように、弁慶さんは優しく声を掛けてくれた。
「大丈夫ですよ、望美さん。不安を口にするのは当たり前のことです。中に溜め込むのはよくないですし、話したって罰は当たりませんから」
 結局、弁慶さんの言葉に導かれるまま、私は次々と言葉を発していた。
「昨日、九郎さんと夜に会ってから、一緒に散歩してたんです。そうしたら、森の奥でチラッと人影が見えて、何か事件だったら大変だと思って私たちもそこに行ってみました。でも、そこにいたのは事件じゃなくて、逢引している恋人同士みたいで……。何話してるのかまでは聞き取れませんでしたけど、その内女の人が男の人に抱きついたんですよ。そうしたら男の人の被っていた布がめくれて、顔が見えて……そこにいたのはヒノエくんだったんです」
「まさか、そんな……見間違いではないんですか?」
 弁慶さんも昨日の九郎さんのように信じられないといった表情だ。
「九郎さんも見ました。あれは絶対ヒノエくんです。見間違いなんかじゃありません、私が見間違えるはずないもの!」
「……そうでしたね。すみません、少し軽はずみな言動でした。それでヒノエはどうしたんですか?」
「解りません。ヒノエくんだってわかった瞬間に、私 九郎さんも置いて逃げ出しちゃいましたから」
「そうですか……」
 弁慶さんは考え込むように俯いた。
「でも、それだけで決め付けて果たしていいものかどうか……」
「解ってます、私がヒノエくんを信じてればこんな風に悩まなくて済むこと。だけど、抱き合ってたんですよ。そればっかりが頭から離れなくて、最悪な結果しか想像できなくて、私……」
「それでそんな顔なんですか?」
 私の目の下を、弁慶さんが指でなぞる。
「寝てないんですね、気になって仕方なくて」
 小さく頷くと、弁慶さんは苦笑した。
「しかし、ヒノエも何をしてるんでしょうね。君をこんな風に追い詰めるなんて、彼らしくない」
 確かに少し気になりますね、と弁慶さんは独り言を述べた。
「何かの手違いだとは思いますけど、その女性について僕の方からでもそれとなくヒノエに聞いてみましょうか? もっとも、ヒノエが素直に話してくれるかどうかは保障できませんけど」
 冗談交じりに言ってくれた弁慶さんの申し出は正直言えばありがたい。
 でも、他人から言われた事実を私が果たして受け入れられるだろうか。自分の目でしか見たものを信じない自分が、弁慶さんの言葉に満足して結婚できるだろうか。
 きっと、無理だろう。
「有難うございます。でも、自分で聞いてみます。じゃないと、きっと納得できないから」
「そうですか。確かに、それはあるかもしれません。だけど、その選択は辛いことですよ」
 そんな風に優しくされてしまうと、甘えたくなる自分が居る。だけど、それではダメなのだ。本当に優しさばかりに頼っていたら、いつか私は自分の足で立てなくなってしまう。
 それだけは、絶対に嫌だから。誰かの重荷になって生きてくなんて耐えられない。
「辛いけど、辛くない選択ばかりしていたら、きっとそれこそ本当の幸せなんかつかめないと思います。だから、出来る限りは頑張りますね。話、聞いてくれて有難うございました。少しは楽になれた気がします」
そうだ、いつまでも弱音を吐いているなんて私らしくない。頑張らなくちゃ、ダメなんだ。それがこの世界を知らない私に出来る唯一のこと。
「いいえ、こんなことでお役に立てるのでしたら、いつでも頼ってくれて構わないんですよ。君は一人で頑張りすぎる傾向がありますからね。ヒノエに飽きたら、いつでも僕の所に遊びに来てください」
 まるでヒノエくんがするように、私の耳元で悪戯っぽく囁いた弁慶さんに、思わず私も笑ってしまった。やっぱり血縁者なだけあって、こんなところもすごく似ているんだな。
「ふふっ、弁慶さんったら……」
「やっと…笑顔が見れました。不安に押しつぶされそうな君の表情は、正直見ていてすごく忍びなかったんですよ。その顔を、いつでも忘れないでくださいね」
 こうやって心配してくれる人が居る。こうやって、言葉を掛けてくれる人が居る。
 その事実があるから、私もきっとこの笑顔を忘れない。
「……はい、本当に有難うございます」
「いいえ。それでは、僕はとりあえず今日はこの辺で失礼させていただきますね。実は昨日の用事がまだ残ってるんです」
「え!? ごめんなさい、私知らなくて……長い間引き止めちゃいましたね、大丈夫ですか?」
「えぇ、そんな大したことじゃありませんから。それではまた時間を作って会いに来ます」
「はい、気をつけていってらっしゃい」
「ありがとう、いってきます」
 そうして、弁慶さんは去っていった。
 そうだ、私だっていつまでもこんな風に悩んでるわけにはいかないんだから。
 今日はヒノエくんが帰ってくる日。話をしなくちゃ、始まらない。
 怖い、でも頑張らなくちゃ。勇気を奮い立たせて、私は決意を固めた。



 だけど、結局その日、私はヒノエくんと話すことは出来なかった。









    20051031  七夜月

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