曼珠沙華の咲くまでに 2




「……いった…!」
 親指にプスッと刺さった針。じんわりと左手の親指から血があふれ出してくる。
「もう、またやっちゃった……」
 布と人形を置き、誰も居ない部屋で望美の溜息だけが空気を震わす。外は暗闇に包まれて、本来ならばもう寝る時間のはずなのに、望美は完成を急ぎたくて寝ずに人形とにらめっこをしていた。
 今夜は満月で、月明かりと燭台の灯りでも十分に明るいと思ってやっていたのだが、丁度いいところで材料が切れてしまった。今の失敗で残り僅かだった目の部分の乾燥させた木の実がなくなってしまったのである。
「明日はお父様に呼ばれてるんだよね……一日外に居たら捜しにいく暇がなくなっちゃう」
 お披露目という意味も込めて、望美は最近よく父に連れまわされている。とはいえ、女性が姿を見せるというのは好ましくないとされているので、御簾越しに挨拶する程度だ。お披露目というのは名目上、他人のものとなる娘であるから、手を出すなという言葉が言外に込められている。父親は厳しい人だから、余計にそういうところにも力を入れているのだ。嫁入り前の娘に手を出そうものなら、その場で切り捨てることすら厭わないだろう。もっとも、そういう父親の性格は世間に知れ渡っているので、望美がそういった危険にさらされることは少ない。形だけでも全うせねばならない父親らしい考え方だ。
 けれど、そんなことに付き合っていたら丸一日潰れる。そうしたら木の実を取りに行く時間がなくなって、完成が遅くなるだけだ。
「よし、決めた。今行こう」
 誰かに見つかると煩いので、動きにくい姫装束は脱ぎ捨てる。旅支度用にあしらえられた壷装束に着替えると、望美は部屋を抜けてこっそりと裏手に回った。朔とは部屋が離れていて良かったと、少しだけ思う。聡い人なので、望美の抜け出しなどすぐにも気付いてしまうだろう。
 邸をこんな時間に抜け出すのははじめての事で、望美は冒険心にどきどきしながら音を立てないように裏口の門から外に出た。丁度交代の時間だったのか、見張りが一人もいないのは抜け出す身としては幸運である。
 裏手はすぐに森となっている。夜にもなると夜目の利く動物達が徘徊していて危険なことに変わりは無い。用事をすませてさっさと帰ろうと急ぎ足で歩いていると、森の奥から赤い光が漏れていた。
 真っ赤に広がる光。何事だろうと望美が足を向けると、そこには野犬に囲まれた一人の男が、舞扇を振るっているところだった。
「駄犬如きが…この俺に敵うとでも? 愚か者共が……」
 たった一振り、だが、それだけで、見事野犬は吹っ飛んだ。木の幹に身体をぶつけて気絶しているものもいる。
 けれど、のんびり見物などしているものではない、と望美は思い知る。一匹の犬が望美のすぐ近くまで吹っ飛ばされて、今度は手近に居た望美に的を絞ってきたからだ。歯をむいて唸る野犬。飛び上がった犬に、襲い掛かられる寸前、その犬は強風に煽られて真横に滑るように吹っ飛んだ。
 望美は驚いてその光景を見ていたが、助けてくれたらしい男の顔を見て益々驚いた。
「重衡!? 何をやってるの!」
 望美が叫んだことに気付いた男は非常に嫌そうな顔をしたが、望美はそれにひるむことはない遠慮なく近付いてその顔を見上げた。なんだかいつもの重衡とは違うなと、思ったものの、やはりそっくりである。強いて言うなら目の下に何かまじないの様なものをつけているくらいか。
「何か用か?」
「助けてくれてありがとう。でも重衡、いつもと違うのね」
 男の周りをぐるぐると回り観察する少女に悪意は一切感じられない。だが、男にとってはわずらわしいことに変わりない。
「お嬢さん、何か勘違いされているようだが、俺の名は重衡などではない」
「重衡じゃない?」
「違うな」
 男は歩き出す。望美もそれについて歩き出す。
「じゃあ、貴方の名前を教えて? 私は望美、梶原望美」
「………知盛、だ」
「姓は?」
「生憎と、俺は貴族ではない」
 言外に、そんなものは持ち合わせていない。といいたいのだろう。望美もそれくらいなら解る。
「そう、知盛ね、わかった」
 深く聞き込まずに、望美は暫く知盛の後について歩いた。
 知盛が立ち止まったのは、一面真っ赤に染まった広い野原。そこには月の光に照らされた曼珠沙華が生い茂り、なにやら見る人によっては妖かしがたくさん出そうな不気味な場所だ。それでも、月明かりが眩しい。
 知盛はそこの一番大きな木の幹に腰をかけて目を瞑った。
「知盛は何をしてるの?」
「寝る」
「知盛はここに住んでるんだ、ごめんね、邪魔して」
 謝罪しても、望美が立ち去る気配を感じられずに、知盛は片目を開けた。
「帰れ」
「帰り道、どっちだろう」
 望美は後ろを振り返り、きょとんと言葉を発する。だが、冗談じゃないと思ったのは知盛のほうだ。
「歩いていればつくだろう」
「無理無理、私方向音痴だから。困ったなー、木の実を取る程度だと思ってたから、まさかここまで奥に入るとは」
「もと来た道をまっすぐ戻ればいい」
「それが出来たら方向音痴じゃないよね」
 ああいえばこういう望美に、知盛は非常に面倒くさそうな顔をした。
「俺に送っていけとでも? 寝言は寝て言うものだ」
「ううん、別に。そんなことは思ってないけど……あ、そうだ。送ってくれなくていいから、どこかに木の実のある場所ないかな? 教えてほしいの」
「そこらへんで探せ。運がよければ落ちてるだろう」
「あ、本当だ!」
 知盛が言ったように、確かに木の実が落ちていた。望美は眠ろうとしている知盛の身体をよっこらせ、とどかしながら木の実を拾った。
「知盛の言ったとおりだったね。あったよ、木の実」
「……お前は、俺を怒らせたいのか?」
「え? どうして?」
 望美は知盛が怒る理由がさっぱり見当つかなくて、聞き返した。逆に知盛は望美の返事に脱帽して、どうでもよくなったのか再び仰向けに寝転がる。
「ねぇ、知盛はどうしてここにいるの?」
「詮索が過ぎると身を滅ぼすぞ」
「言いたくないならいいんだけど、ねぇ。知盛はいつもここにいるの?」
「詮索するなと言ったばかりだ」
「それくらいは許容範囲でしょ? じゃないとウチのお父様みたいに眉の間に幾つモノ皺が出来るよ、こーんな感じに」
 実践して眉間に皺を寄せた望美を見て、知盛が『クッ…』と笑った。
「あ、笑った。なーんだ、普通に笑えるんじゃない」
「お前もう帰れ」
「言われなくてもちゃんと帰るよ。それじゃあ、またね、知盛」
 また?という言葉を聞き返そうとしたが、知盛はやめた。望美も特に深く考えて発した言葉ではないだろう。別れ際の挨拶の代名詞だ。
「……気をつけろ」
 気遣う言葉が出てくるとは思いもよらず、望美は振り返って知盛を見たが、知盛はもう寝入ってしまったようだった。
「おやすみ、知盛」
 聞こえぬ程度におやすみと告げ、望美は知盛にお別れをして歩き出した。
 木の実も見つかったことも嬉しいが、それより知盛に出会えたことが嬉しく思える。望美にとって、あんな風に話せる男性は初めての事だった。
 友達に、なれるかな?
 手に入れた木の実を手のひらで広げてみると、なんだか知盛の目の下についていた飾りのようなものに似ていた。
 明日もいるかなーとのんきに考えながら(知盛にとって嫌なことを考えながら)、望美は迷いに迷ってようやく家へと戻った。

「あのね、私って友達いなかったの」
 また、という言葉の悲劇が、現在こうして目の前に起こっていることで、知盛は溜息をついた。
「朔っていう、すっごく頼れるおねえちゃんはいるんだけど、友達はいないの。みんなね、私を特別扱いして腫れ物に触るように接するんだ」
 知盛が相槌を打つことをしなくても、望美のお喋りは止まらなかった。
「だから、知盛と出会えて良かった」
「何故だ」
 ああ、聞き返すべきではなかったのだ、ここで聞き返さなくてもなんとなく察してしまった知盛。だが、もう言葉は出た後だった。
「だって友達が出来たんだよ?」
「……誰と、誰が、友達だと?」
「私と知盛に決まってるじゃない」
 やっぱり。この小娘は知盛をどうやら友達扱いしたくてたまらないようだ。
 けれど、知盛は冗談ごとではない。面倒くさいの一言に尽きる。これで、友達だと認めたが最後、否応なく付き合わされるだろう。知盛はただ、ひっそりと眠りにつきたいだけだ。
「俺はお前と友達になった覚えなどない」
「えー、減るものじゃないんだから、なってよ、友達に」
 減るものじゃないという言葉が果たして正しいのかは置いておくにせよ、知盛はとにかく馴れ合いなどごめんである。
「冗談だろう?」
「本気だよ。じゃ、今から友達ね!」
 知盛の手を無理やり掴んで、望美はブンブンと振った。勝手に友達にされてしまった。認めた覚えの無いうちにである。
 だが、知盛は否定するのも面倒になり、結局そのまま何も言わなかった。この様子だと否定して無駄に言い争いをした後に理不尽な理屈でごり押しされて結局友達をやらされるなら、このまま何も言わない方がいい。今ならば逃げ道がある。
 それが、後ほど後悔することになるが、この時の知盛は全く気付かなかったのである。
「友達だから、今度一緒にお茶でもしようね」
「一人でやってろ」
「ちゃんと知盛の分も入れてくるからね」
 望美はふふふーっと笑って、小指を立てた。何の合図だ、と目で視線を追った知盛に、望美は自ら小指を絡ませる。
「約束ね、絶対だよ」
 指きりげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲ます。指切った。
 知盛は驚いて手を離したが、遅かった。
「どうしたの? 知盛?」
「契約だ」
「契約?」
「口約束では無効だが、こうして契りを交わした場合の約束とはつまり、俺たちにとって契約をさす。今、契約が成立して、俺はお前とお茶をしなければ、ハリセンボン飲まなければならなくなった」
 心底嫌そうに、知盛は呟く。
「……えーじゃあ、絶対いつかお茶すればいいんだよ。そうしたら、知盛はハリセンボン、飲まなくてもいいんだから。ね?」
「……責任取れ」
「取る取る! 大丈夫、任せて!」
 望美は胸を張って叩くが勢いが強すぎて、むせてしまった。
「馬鹿だな」
「馬鹿じゃないよ、失礼な」
 またも知盛が笑ったので、望美は怒ったふりで腕を上げたが、やはりニコニコと笑顔を浮かべた。
「絶対おいしいお茶、持ってくるからね」
 知盛は何もしていない、相槌すら打たない。けれど、何故か嬉しそうな望美は、知盛の返事が無くても終始鼻歌を歌いながら木の実集めや知盛との会話を楽しんだ。
 友達というものを初めて持つ嬉しさに、心弾ませながら。

 





    20061004  七夜月


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