黄金色の残像



 深い暗い、闇の底。まるで水の中でたゆたうような心地よさを感じながら、無重力さに身を投げ出していた。
 思考も何もかもを奪われて、水は自分の身体を絡め取る。どうせだったらもうこのままでいいかなと眠っていると、途端に重苦しい圧力が自分に襲い掛かった。身体を引きちぎるような痛み、鉛を身体の上に乗せられてしまったかのように、動けなくなる。先ほどまでの心地よさはどこかへ消え去り、残ったのは自分を呼ぶ、師匠の声。
――那岐、こちらへおいで。お前を痛みから解放してやろう。呪いと言う名の、不幸からお前を救ってやろう。
 思いがけず懐かしい師匠の声、那岐はその声に助けを求めるかのように無我夢中で手を伸ばそうとした。だが、指一本動かせられない。水が自分にまとわりつく、口に入ってきて那岐の呼吸を奪う。苦しい、このままでは死んでしまう。
『那岐』
 那岐を呼んだ師匠とは違う声の持ち主。
 千尋に会いたいと、那岐はそう強く思った。
 
 そこで目が覚めた那岐は、今まで自分が見たものが夢であるとわかって心底ほっとした。
 額に手を当てると、じっとりとした感触が手のひらに伝わった。しかめ面をして、那岐は起き上がった。
 寝汗をかくほど恐ろしい夢だった。千尋と二人、常世との戦いを終えて平和に暮らし始めてから、こんな夢を見たのは初めてだ。
 外を見れば、陽はもうだいぶ高いところまで昇っている。珍しく今日は誰も那岐のことを起こしに来なかったようだ。いつもこんな時間まで寝ていたら、必ず誰かしらが起こしに来るものを。洗顔を済ませて部屋を出て、ぶらぶらと歩く。行き先は千尋のいるであろう執務室。那岐は仲間の誰ともすれ違わないことに疑問を抱きつつも、それ以上に今は千尋の顔を見たかった。
「千尋、いるか」
 声をかけながらドアも何もない執務室へ入る。だが、そこには竹簡が点々と置かれているだけで、千尋の姿はなかった。ちょうどやってきた豊葦原の武官を引き止める。
「これは那岐様、いかがなさいましたか」
「千尋を知らないか」
「王でしたら、本日は常世との会談に出かけられました。本日はこちらにお戻りになられないとのことですが……」
 那岐の眉が瞬時に顰められる。そんな話は聞いていない、大体昨日千尋と話したことといえば、呑気に明日は晴れるといいなあとか呟いてたのを聞いたくらいだ。それとも、常世への行程を心配しての発言だったのだろうか。
「常世へ行ったのか? そしたら数日は戻ってこれないだろ」
 那岐の言葉に、武官はいささか困ったように曖昧な表情をする。
「すみません、そこまでは聞き及んでおりません」
 彼は那岐の態度に困惑しているようだ。確かに自分がこんなにも感情を出して話をすることはないと、那岐も自覚している。しているからこそ、苛立ちが押さえられない。何故千尋は何も言わずに行ってしまったのか。
「わかった、もういい。引き止めて悪かった」
 会釈して去っていく武官を解放した那岐は、次いで千尋が好む中庭へとやってきた。休憩時間となれば天気の良い日はここで日向ぼっこをしている。那岐もここの木陰はお気に入りなのでよくかち合うことがあるが、今日はいやに静かに感じた。鳥の声も聞えない。世界が冷たく感じる。
「何を考えているんだ、僕は。たかが千尋に会えないくらいで」
 そう一人呟いてみるものの、那岐の心は晴れなかった。禍日神と戦い一人だけ取り残されて、千尋を連れて行かれたときの絶望は、身体の自由を束縛するほど那岐の身に染み付いている。
 もう二度と、あんなことは御免だった。もう二度と、離さないと約束したのに、千尋はこうも簡単に手からすり抜けてしまう。那岐は自分が昼寝をする定位置の木の下へやってくると、座り込んだ。こうして中庭を眺めていると、この庭がとても広いことに気づく。いつもは狭くて窮屈な感じが否めないのに、庭だけじゃなくこの橿原宮そのものがとても広く感じた。宮だけに限らず豊葦原はとても広く世界そのものが広いから、ちっぽけな自分や千尋が世界に投げ出されたらすぐにも埋もれてしまうだろう。
 朝の夢を見たせいか、那岐は会えないとなればなるほど千尋を求めた。会いたくてたまらなくなった。
「…………クソッ」
 悪態をついて、前髪を掻き毟る。どうにも出来ない空虚感が、那岐の心を支配した。


 深い闇の中、今度は水音がずっとどこまでも続いている。これは、なんだろうか。そう考えて那岐は自分はこの音を知っていると思った。ずっと、小さい頃聞いていた音だ。朝も昼も夜も、絶えず続いてた水音。穏やかな流れの中、自分が泣く以外に聞え続けていた川が流れる音。
 この音がずっと嫌いだった、この音は僕を恐怖という檻に閉じ込める。どんなに泣いても、手を差し伸べてくれるものが居ないという、世界で一人ぼっちであるという恐怖を。
 その恐怖を拭い去ってくれた師匠の思い出が今度は甦って、寂しさが喚起する。黄泉の中で永遠に彷徨い続ける道を選んだ自分の師匠が、自分を抱いてわが子として育ててくれた思い出が優しければ優しいほど、寂寥感は増幅する。
 こんな温かな思い出はいらない、辛さが増すだけだから。他人と関わることを拒絶してきた自分の人生に、それでも踏み込んできたのは師匠のほかにはたった一人だ。
 だが、その一人も今はいない、自分の手の届かないところにいってしまった。水音は薄気味悪いくらいに続いていく。周りが何も見えなくて、自分はこのまま永遠に孤独であり続け水音を聞きながら静かに気が狂っていくんだろうか。そんなことまで考えた。
 だが、前触れなく突然真っ赤な光が那岐に差し込む。
「那岐!」
 声が聞えて、那岐は思わず手をかざした。そしてようやく自分が眠っていたことに気づいた。差し込んだと思ったのは、夕焼けの赤さだった。
「やだ、那岐大丈夫!?」
 何が、と声を出そうとして、自分に必死に話しかける千尋が見えた那岐はまだ自分が夢を見ているのかと一瞬本気で思った。だが夢というには自分に触れる千尋の手は温かすぎる。
「帰ってきたのか……」
「だって畝傍山に行っただけだもの、すぐに帰ってくるわ。それに明日は大事な日じゃない。それよりも」
 那岐はてっきり千尋だけかと思っていたが、千尋が目配せした先には遠夜と風早がいた。遠夜が那岐を見てジッとしている。そして千尋を見つめると、千尋の顔色が青くなった。
「呪詛……? なんで、私の身代わりになったって事?」
「すぐに祈祷しましょう、俺はとりあえず柊を呼んできます。こういうとき、何か知恵を貸してくれるかもしれない。あと、他の者にも伝えてきましょう。那岐を運ぶのに人手も要りますしね」
「わかった、遠夜は解熱剤を作ってくれるのね、部屋で待ってるから」
 珍しく慌てている風早と遠夜を見送って、千尋は泣きそうな顔で那岐を見た。王のくせになんて顔をしているんだ、それは那岐が最もよく知る『葦原千尋』の表情で那岐は安堵した。
「ごめんね、那岐。私のせいでこんなことになって」
「僕にはなんのことだかさっぱりだけど……」
「わたしにかけられるはずだった呪いを、那岐が代わりに受けたのだと遠夜が」
 那岐は呪いと聞いてようやく自分の状態がおかしいことに気づく。風邪の症状と同じように全身がだるく、酷く寒気がするのに、頭は燃えるように熱い。そして、こんな風に嫌な夢ばかり見たのは、きっとこの呪詛のせいなのだろう。
「そうか……良かった……」
「なに、どうしたの?」
「千尋が無事なら…それでいい」
 呪詛は人の心に付け込む。己の一番弱いものを幻覚として見せて、生気を蝕んでいく。ならば、那岐が見ていた夢もすべて呪詛のせいなのだから、千尋はきっとどこにもいかない。現にここにいるではないか。
「千尋……」
 那岐は千尋の名前を呼んで、屈みこんだ千尋を抱きしめた。
「頼むから…黙ってどこかに行くなよ」
 自分の知らないところ、守れないところにはいかないでくれ、那岐は切実にそう請い願う。
「行かないわ、那岐の傍にずっといる。だから安心して」
 千尋に抱きしめ返されて、その温もりに安堵が生まれた。那岐の嫌な夢が解けていくように、那岐の瞼が落ちても金色の残像が焼きついて深い闇は訪れなかった。





 おかしい(何度目)。誕生日は葦原家でパーティとか考えていたのに気づいたら呪詛の話に。おかしい。
 っていうか、誕生日祝ってないじゃん!と思ったので、頑張って今からお祝い用でも書くか(出来ました「金糸のまばたき」)。毎度の事ながらどうしてわたしは暗い話とセットにするんだろうか。誕生日だ!と意気込むと毎度暗くなるんです、本当になんでだろう


   20080915  七夜月

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